メディアプレイヤー
プロローグ 「内気なあいつ」(そ、そうかあ)
その時、今川裕一はおもむろに上着のポケットからウォークマンを取り出し、演奏中のそれをじっと見つめた。
だらしなくぶら下がったインナーホンは、彼の両耳とちっぽけな箱を頼りなく結ぶ一本のラインを形作っている。
(混線? んな馬鹿な!)
当たり前だ、それにはラジオチューナーは内臓はしてないはずだ。買ったのは自宅の近くの小さな電気屋で、邪魔にならないようにややくぼみ気味のボタン--再生と停止--と、一度も触ったことのないノイズリダクションのスイッチが、はてどこにあったっけ?
ともかく、チューナー付きとなれば、当時あと一万の投資は必要だったことは確かだ。
『キャンディーズか、顔に似合わんもんを聞いているな、おまえ』
(大きなお世話だ。俺はスーちゃんのファンなんでえ! 文句あるか!)
そういう憤りを心の奥底に押さえ、裕一は至極同然の反応を取り戻した。
(んな馬鹿な!)
何で、再生専用のウォークマンから聞き覚えのない男の声が聞こえなきゃならんのだ? うら若き女の声なら多少はときめいて見せるものを。
『だいたいだなあ、キャンディーズが歌ってた時って、おまえ生まれてたか?』
(確か、俺が高一で十六才だから、えーと
……)
「う、うるさいわい!」
そう叫んでしまって、裕一は「しまった!」と後悔した。平静を装い、苦笑いを浮かべては見るものの、もう遅い。
周囲を見やるまでもない、夕方は駅前の商店街、買い物袋をぶら下げたおばさんの姿は四方にあり、通勤通学帰りの通行人はそろそろ人出を増すばかりだった。
正面には、母親の手に引かれた幼児がきょとんとした目を向けている。いたたまれないものを感じ、裕一はその場を立ち去る決心をした。
『きゃははは、照れてやんの!』
(うるさい、うるさい、うるさい!)
右手にウォークマンを握り締め、家路を急いだ。徐々に歩幅が増していくのに、本人はまったく気付かなかった。
(キャンディーズの解散っていつだっけ?)
『おまえ
……ちょっとずれてるぞ』
1 「ハートのエースが出てこない」(無理があるぞ)
(あれ? いやに早かったじゃない)
「親友の篤志と約束があるんだ」と言って出かけた兄が、ものの三〇分もせずに戻ってきたことに、知恵は好奇を覚えた。
ドスドスと階段を踏みつける足音は、裕一の機嫌の在処を推し量るのに充分な情報を提供してくれる。
「この時間じゃ、駅までも行ってないわね
……」
しばし考え、手にしたチップスを口に詰め込むと、知恵は兄の後を追った。むろん、足音は立てない。
(相当荒れてるみたい
……)
よしよし、頭に血が昇った時のお兄ちゃんは
……面白いからなあ。
帰宅した時の裕一が最初に取った行動は、ウォークマンから何の変哲もないカセットを取り出すことだった。
見たところ、変わったところは何もない。「Y3」と自分のイニシャルでラベルを作っているのは、さすがにタイトルから中味--所有者の認識の中では、それは「往年のキャンディーズ・ベスト裕一スペシャル」とでもいったところだ--を言い当てられる危険を避けるためだ。今のところ、その意図が効を奏したためしはない。
「うーむ」
どうしたものか、と一応は悩んでみる。先程の憤りも治まりつつあった。ついで、また聴きたくなってくるのは彼の為人であった。
部屋の隅に放り出してあったラジカセに手を伸ばし、再生させる。曲の途中であったが、コンマ数秒でそれが「春一番」であることを確認し、やや胸を撫で下ろした。
「よし、『気の迷い』ということにしておこう」
安易な解決を望むのは、彼がまだまだ凡人たらんと欲するが故だ。
若干一六才の高校生が、生まれる以前に流行ったアイドルの曲をすべて網羅し、放映されたすべての出演番組の日付とタイトルまで調べ上げといて「凡人」で通るはずがあるまい。友人は許しても作者は許さないのである。(おっほほ
……私がゆるさん)
『ここがおまえの家か--』
--ガシャ
「
……」
停止ボタンを神速の早業で押した裕一は、ボタンを力強く押し込んだまま数瞬の躊躇を覚えた。このまま録音(消去)する勇気が果たして自分にあるかどうか
……。
『失礼な奴だな。人の話は最後まで聞くものだ。学校で習わなかったのか?』
無意識のうちに録音ボタンを押した裕一は、いつの間にかラジオを通してその声が発せられたのを確認した。震える手が額に援助の手を差し伸べる。
激しい後悔--
『あらあら、大事なもんじゃなかったのか?』
その時裕一は、思考能力の保持という儚い努力から無縁の存在となった。
「ぶぁ、莫大なお世話じゃあ~~~~!!」
大きくラジカセを振り上げた彼を制止させたのは、その最大の理解者--もちろん、好意的である必要はまったくない--であるところの妹の一声だった。
「一九八〇〇円はお小遣い四ヵ月分!」
背後から投げかけられたそれは、具体的かつ所有者への影響度を的確に指摘した名文である。
「う
……」
硬直した裕一にあきれた視線を送りながらも、知恵は問いかけた。
「いったい、何をやってるの?」
裕一は力尽きたようにラジカセを下ろした。
「わ、わからん
……」
『遊んであげてるのさ』
「うぉおおおお~~~~!」
再び激情に駆られた裕一には、さしもの知恵も実力をもって応じる他はなかった。もちろん、腕力によってである。
「いい加減にしなさい!」
知恵に激しく足を払われた裕一は、同時に襟首をつかんだ左手によって床に叩きつけられた。
--グシャ(やはりこういう擬音語がふさわしいか)
『お見事!(パチパチ) 柔道か何かをやっているのかな?』
「あら、わかりますぅ? この前、昇段試験がありまして」
『うむうむ、若いのに大したものだ。関心関心』
「で
……、何があったのかしら?」
『うむ、大したことではないのだが
……』
「う
……うるさいわい
……」
床に這いつくばる裕一からは、自己の存在を主張するためだけのうめき声が発せられた。
若干の訂正を無理矢理封じられた裕一を尻目に、以降の説明はそのほとんどがラジカセの声によるものだった。
--かくかくしかしか
……(べ、便利な表現だなあ)
「ふーん
……」
やっと理解した風に知恵が口を開いた。
「なるほど、『遊んであげてた』わけね。でもいったい、どうしてお兄ちゃんのウォークマンに取り憑いたの?」
『取り憑いたって
……別に幽霊の類ではないんだが』
「ねえ、どうして?」
「そうだ! 事と次第によっちゃあ!」
「お兄ちゃん! 一九八〇〇円!」
「ぐぐっ
……(立つ瀬がない)」
『そんなこと、知らん』
「うぉ、おんどりゃあ~~~~!」
--トゥルルルル
……
三度(みたび)、勢い良く立ち上がった裕一には、突如の電話の呼び出し音など聞こえるはずもない。
「さあ、約束をすっぽかされた篤志君から怒りの呼び出しよ! さっさと謝ってらっしゃい!」
--ケリッ(蹴り)(こんな擬音語、あったかな)
「うぎゃー!」
完全に喪失状態となった裕一は、この後階段を踏み外すというお約束の醜態を演じることになる。
--ドテン、バタン
……
『
……(かわいい顔をして、やることはえげつない)』
「ねえ、ラジカセさん」
『うん?』
「うちのお兄ちゃんって面白いでしょ?」
『
……(汗)』
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2 「春一番」(んなもんかな)
時と場所を選ばず、自らの意志とはまったく関係のないところで裕一はこの謎の声にまみえることとなった。テレビの副音声がその勢力下に落ちることぐらい日常茶飯事でである。
夜中であるにも関わらず陽気なメロディー(作者の地元では「口笛はなっぜ~~」)を引き連れて街中をめぐるゴミ回収車のスピーカーに割り込んできた時にはさすがの裕一も絶句したものだ。
文字通り、遊ばれていた。
さて、いく日か過ぎた朝である。
げんなりとする裕一に、歩を進める足取りにも力はなかった。例によって登校風景
……学園ものの定石であった。
「どうした? 裕一」
--バン!
勢いよく背中を強打して挨拶の代わりにする。こういう時は悪意のない方がずっと強烈なものだ。
不意打ちにバランスを崩した裕一は、地面からの熱烈なプロポーズに心動かされた自分の顔面に必死の説得を試みたが、いかんせん、こういう時の保護者(親)は敗北するものと相場は決まっている。
--ドテ(迫力もなんもない擬音語)
「い、痛ってえ
……」
「どぉわははははっは
……」
涙まじりに手で鼻を押え、裕一は悪意のかけらも見せず高笑いをかます友人に向き直った。
いつもニヤニヤした顔をしたやつだ、この佐伯篤志という男は
……にも関わらず、婦女子の評判はすこぶる良い。(おるわなあ、そんなやつ)
「いつもより
……不機嫌な顔をしているぞ」
「何だ、その『いつもより』って?」
ふふん、と篤志は澄まし顔で、立てた人差し指を左右に振った。
「日本語表現に置ける文法的解釈を聞きたいのか?」
「い、いや
……いい」
つ、疲れる
……。深くため息をつくとカバンを拾い上げ、裕一は先を急いだ。
「お、おい待てよ
……」
早足に歩を進める裕一に、追いかけるようにして篤志が続いた。人知れずニンマリと頬をゆるませていた。
これはまた、虫の居所が悪いなあ
……
妹の知恵と同じ意味で、裕一にとって篤志は希有な理解者のひとりでもあった。
「つぎー、英語の松田だ~~!」
「きゃはははは
……」
「佐伯君、おっかしぃ~~」
昼休みのひととき、抑圧された学園生活のほとんど唯一といえる憩いの時間だ。天性のエンターティナーを自負する篤志の反動的余興の独壇場ともなる。
「くぃ~みたちのような優秀な生徒が
……とは、先生は非常~~に悲しい」(ああ、かつての悪夢が
……悲)
妙な声色を駆使した篤志の物真似は、たとえ本物を知らない他人が見ても笑える。手にしたチョークがぶるぶると震えながら崩壊していく様までそっくりだ。篤志はこの技を身に付けるためだけにウエイトジムに通ったという噂があるぐらいであった。
裕一は知っていた。
それは紛れもない事実だ。(な、なんだこいつら
……)
(おーお、やってるやってる)
窓側の席なのをいいことに、裕一は足を組んで教室内の喧騒を達観していた。本人は格好よく決めているつもりである--窓を通して老朽化した体育館の粉砕工事が見事なパノラマさえ繰り広げられてさえいなければ
……。
「おお! すげえ!」
「えー、なになに?」
「え? おい、何だ
……ぐえぇ~~!」
裕一を押しのけ、篤志アンドその取り巻きがいっせいに窓に押し寄せて来た。哀れ裕一は自らの意に反して突然の野次馬たちの立ち見台を引き受けることとなった。
--ドン! ガラガラガラ
……シャーン
……
「たかだか体育館の解体にはっぱをかけるとは、うちの学園も中々やるじゃないか」
「すっごーい! あたし、はじめて見た」
きゃぴきゃぴとうるさい女生徒の足に踏みつけられ、俺にゃそんな趣味はない! と怒鳴ってやりたい裕一であった。
「お、お前ら~~」
しかし、ダメージは大きかった。
「お、裕一か? ご苦労ご苦労」
ぷちん! 切れた
……(うんうん、そうでなければ
……)
「て、手前らあ! そこに直れぇ~~!」
「きゃっ」
渾身の力を振り絞り、背中の女生徒たちを振り落とすと、軽い身のこなしで難を避けた篤志に挑みかかった。
「うぉ~~りゃぁあ!」
篤志の声はあくまで冷静だ。
「ふっ
……丈よ、最後の対戦を覚えているか?」
--シュン
「ぶほっ!」
かの力石徹の生涯最後のパンチを彷彿させる、見事なアッパーカットであった。
3 微笑みがえし(ははは
……)
夢中
……というのは便利なものである。時と場合にもよるが、自分の見たい情景や出来事が繰り広げられる時にはなおさらであった。
木陰で横たわる裕一の頬には心地好い風が感じられた。疲れ果てた体を休める絶好のシチュエーションだ。重い頭の下はふんわりとした膝枕、視線を上げると柔らかい笑みが裕一を気遣いつつもも返って来た。
佐藤舞子、クラス一の美貌の持ち主だ。長い黒髪が風に揺れている。容姿端麗、成績優秀と、小説に書いたようなお決まりの美少女である。密かに憧れる者は多い。その例に漏れないのが裕一である。幸いな事に、少なくとも美的感覚においては常人の域に納まっていた。
下から見上げる新緑の背景は、舞子の表姿に見事なフォーカスを演じていた。
(くぅ~~、いい感じだぜ)
今まで気にならなかったが、傍らではひっそりと置いてあるラジオから妙(たえ)なる歌声が流れていた。言わずと知れた「微笑みがえし」である。(な、なんて安直)
「ん?」
心ならず、裕一は顔をしかめた。
ラジオだって?
『
……おい』(やっぱり
……)
耳障りだ。誰が何といっても「今」耳にしたくない声だ。
『なんて様だい、まったく
……』
「う
……」
『すぐに逆上しおって』
「うう
……」
『そんなんで、この世知辛い世の中を渡ってはいけんぞ!』
「う、うるさいわい~~!!」
--ガバっ!
飛び起きたそこは、学園においては滅多に見かけない白いカーテンのある部屋、保健室のベッドの上であった。
全身全霊をかけた篤志の一撃を顎に食らったのである。たとえ裕一でなくても無事には済むまい。柔よく剛を制する知恵の技に比べると、篤志のそれは遥かに甚大な影響を裕一に及ぼす。いわく「打撃技はご法度だぜ、おい」
しばらくの間、裕一は毎度の食事にも苦労する有り様だった。
それはともかく「声」は室内に備え付けてある校内放送のスピーカーから聞こえて来た。
「お前か
……はぁ」
がっくし、とうなだれてため息をつく。人知れず、目には涙
……潤んだ瞳が熱かった。青春の涙である。(な、何を言ってんだか
……)
残念がるでない、裕一。鳴光学園のマドンナ、佐藤舞子にもはや出番はない。この場面だけのご都合キャラクターだったのさ。(ひ、ひどいやつ)
『中々いい学校じゃないか』
「まあな」
そっけなく答える裕一には抗う気力はもはやなかった。もう、どうにでもしてくれい
……。
『ところで裕一』
「なんだよ?」
『体育館が爆破された時からおかしいと思ってたんだが
……』
「何が?」
『おまえの学校、ちょっとヤバイことに関わってないか?』
「ん
……いったい、何を言ってるんだ?」
場違いな話題の転換に、裕一はうなだれた首を起こした。
『そこの薬棚を覗いて見ろよ』
言われるまま、裕一は何の変哲もない戸棚に向かい合った。
『青いビンがあるだろう?』
「ああ、それがどうした?」
思わず手にとってみる。蒼く半透明なビンの中には金箔でも浮かべてあるのだろうか、きらきらと光を弾く光点が瞬いていた。不意に、
「
……美味そうだな」
『別に止めやせんが
……』(相変わらず、ずれたやつ)
『ブルーフレイム
……ヨーロッパあたりで猛威を揮っている最新の麻薬だな』
「はあぁん?」
いきなり現実離れした話題には、思考力が追い付かない。麻薬だってぇ~~? 一介の高校生にはこれほど馴染まない事柄はない。
『相当な高濃度だな。これだけあれば小さな市ぐらいなら壊滅できるぜ』
「まっさか! たったこれだけしかないのに?」
陽気に手にしたビンをぶんぶん振り回した。
『割るなよ、気化した途端に陽光との作用で大爆発だな。この学校がシェルター並の強度があるとは思えんが』
「ひぇえ~~~~」
--硬直
「そ、そういうことはもっと緊迫した口調で言うもんだ」
両手でがっしり握ったビンが震えていた。二本の手だけでは足りない。彼の足が動物園の猿並に器用であったなら、当然のごとく懸命なる援助を与えていたことだろう。
『こっちにゃ別に影響はないからな』
「うう
……」
(そうだ、そういうやつなんだ、こいつは
……)
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4 「暑中お見舞い申し上げます」
無くても全然構わないほど存在価値のない役職であるはずのクラスの保健委員だが、どういうわけかマンガなんかだとやたら活躍するのが不思議である。
希有なことに、内藤祥子はそれを自らの天職とするがごとく、進んでその役職についた保健委員の鑑(かがみ)であった。
(可哀想に
……篤志君の一撃でついに頭にまで
……)
いい加減、本日の授業も終わり、放課後といった時間である。保健室に担ぎこまれたまま帰ってこない裕一を心配してきたわけでは
……まるっきりなかった。
「いつまで寝てんのよ! 学校ももう終わりよ、さっさと帰んなさい!」
と、裕一を叩き出すためにやってきたのだが、何やら物音がして中を覗きこんだ情景は、必死の形相でカエル座りをしてうずくまる裕一がぶるぶると震えながらうめき声を発しているところであった。
本人はいたって真剣であった。不器用ながらも、裕一は自らの両足に期待をかけずにはいられなかったのだ。両手両足の四方から挟まれた物騒な薬ビンは、鬼気迫る裕一の射貫くような眼光の前に、最高法廷に不本意ながら償還された重要参考人であるがごとく冷や汗浮かべていた。
「う、動けん
……」(当たり前じゃい!)
篤志あたりであれば、最大限に好意的な、つまり体中の力みが抜けて鞭のように柔軟性に富んだハイキックをこの無防備な裕一の後頭部に浴びせたいという衝動を抑えることはできなかったであろう。それが自分の存在価値だとでもいうように。
しかし祥子は、自らの燃える使命感に従って行動しない訳にはいかなかった。
(この人は
……裕一君は『救い』を求めているんだわ!)
「裕一君!」
--ギョッ!
トイレでの喫煙をうるさい生活指導の教師に見とがめられたまだ不良未満の罪悪感、というよりは山野にて止むにやまれず用を足す(しかも大きい方)様を地元の娘(しかも美人)に発見された時の焦燥にも似た衝撃が裕一を襲った。
駆け寄る祥子の疾走を肩越しに見やる裕一は、ふと思った。
(はは
……本当なんだな、マンガみたいに足の裏が見える)(どんな走り方じゃ)
「何てことをしているの!」
「ぐぇ~~~~!」
見事に入った。後方からの祥子の右手は裕一の逆の襟を渾身の力でつかみ、気道内に残された裕一の吐息は永遠の禁固刑を覚悟した。知恵でさえまだ到達し得ぬ、締め技の理想的な完成美、ひとつの境地がそこにあった。
祥子の確信とは一瞬だが時間の前後があったものの、確かに裕一は「救い」を求めていた。
(ぐ
……苦しい~~~~)
「この薬ね! この薬が裕一君をこんな風にしてしまったのね!
ああ、なんてことでしょう。あたしがついていながら、よりによって保健室でこんな事件が起こるなんて!
多くの傷つき、病に侵された純朴な生徒たちを癒し、潤いを失うことのなかった聖地ともいうべきこの保健室までも、世界でもっとも邪悪な犯罪--麻薬--のために汚されてしまったとでもいうの?」
「いいえ、違うわ!」
確固たる決意を以って祥子は叫んだ。
「確かに今、この人は救いを求めている。そうよ、自らの心の病魔と戦うべくこの神聖な保健室にやってきたんだわ。
そう、これは私に与えられた試練に違いない。そうですね、保健室の神様?」
『
……(あ、あんぐり)』
上方にたたずむスピーカーからは、もしそれがブラウン管であればかくやと思われるほど大きく塞がることを忘れた口の奥底までも見えるようであった。
「とにかく、この薬はあたしが預かっておくわ。いいわね!」
嫌も応もない。けたたましく捲くし立てる祥子の喚問に、裕一は反論の機会を与えられなかった。一言の言葉も発することなく、裕一の有罪はもはや確定的なものとして陪審員の目には映ったことだろう。
「ぐぃ
……ひっく
……」
(な
……何でもいいから
……喚問中に刑を執行するのはやめてくれ
……)
--カクン(なんて小気味良い音だろう)
事切れた
……
祥子は裕一の手にしていた薬ビンを強い常習性を伴い、理性を奪う反社会的な液体(つまり麻薬)と断定した。
保健委員を神より与えられた使命と自負する祥子である。いかなる薬剤がこの保健室の棚に並べられ、使用されているかは、その配置、埃の溜り具合まですべて祥子の知るところであった。
まさに保健室の座敷童である。(こ、こいつもか
……)
祥子は、裕一の目に狂気を認め、自らの腕の中でもがき苦しむ様に文明社会の病魔を見た。目を閉じれば浮かんでくるのが、今ではもはや探しても見付からぬ歩行者用信号とは色違いのコマーシャルであった。(「人間やめますか? それとも
……」)
とまれ、すでに臨死体験を済まし、忘失状態のまま帰途についた裕一を見守る瞳には昨日までの祥子にはなかったものがあった。
視線まだ定まらず、揺れる足取りは遥か成層圏の上、薄暗い夕日を通しても見える範囲で転倒すること両指に余るこの打ちひしがれた裕一を、送るわけでもなく保健室から叩き出した彼女の非情さ、というわけではもちろんない。
この一件が周囲の知るところとなり、大きくまた深く「人間失格者」としての刻印を押されるか、それともただひとり祥子の胸に納め「私が立ち直らせてあげる」という熱く迸るような情熱の炎に身を焦がすか。
どちらが裕一にとって幸多いものであるかは作者のみが知っていた。
5 「危ない土曜日」
夕日に映える保健室、開け放たれたカーテンなびく窓を背に静かにたたずむひとつの人影があった。
「まったく、迂闊なこと
……」
無気味なほど赤く、そして艶めかしい口元から漏れるセリフはあくまで冷ややかだった。
女の名は根岸恭子、ここ鳴光学園に二ヵ月前に着任したばかりの保健医である。妖艶な美貌と並んで、タイトなスーツに覆われたその肢体はあくまでゴージャスで、齢二十四とならんとする女の魅力を必要以上に発散させる。
彼女の着任と同時に、学園の男子生徒らにひとつの確信がもはや決定的な事実として沸き上がった。
保健医は
……女医に限る!(うんうん
……)
ともあれ、彼女の登場と時を同じくして、保健室の利用回数が一気に一二〇パーセントの上昇を見たことを客観的な資料としてここに報告しておく。
今、この美貌の保健医が口にしたセリフの真意は学園側が彼女に求めた職務とはまったく関係のないところにあった。
おもむろに、今日の保健室の使用記録を書き残した一冊の大学ノートを紐解いた。
「一年C組、今川裕一
……」
翌日、クラス中の好奇の視線は唯一の目標に向かってそれこそマシンガンの集中放火のごとく注がれていた。
「なに、あれ?」
「やだ~~」
「ねえねえ、いつから?」
……
噂好きの女生徒のひそひそ話に間断はない。しかし、全容を知るものとてない始業前のクラスにおいて、大方の体勢は整いつつあった。
「へえ、あの祥子がねえ
……」(女生徒の見解)
「た、耐えろ
……裕一」(男子生徒の見解)
「ど、わははははは
……」(篤志の見解)
憂鬱そうに頬杖を付き、無視を決め込む裕一に、内藤祥子は甲斐甲斐しく脈を取り、体温計を咥えさせ、力任せにまぶたをこじ開けて瞳孔を調べる。時折、何かわかったのか細々とメモを取っていた。
「おい
……」
髪の毛を数本抜いて顕微鏡で覗くところまでは我慢できた。しかし、忍耐には必ず「限界」というものが、運命の恋人であるがごとく訪れるものなのだ。その周期が異常に短いことで裕一のそれはつとに知られている。
「やめんかい!」
ぴくっと動きを止めた祥子の右手には、どこから取り出したのであろう、採血用の注射器が今、その鋭利な針を装填されたところであった。本来あるべきところに納まり、これから自分のなす役どころに戦慄にも似た薄ら笑いを浮かべるかのように、鈍い光を返す。
祥子は、まるで篭城する凶悪犯の立てこもる部屋に今しも突入せんとするFBIの捜査官が銃を構えたかのような姿勢のまま鋭い視線を裕一に流し、無言のまま流れるように次の行動を起こした。
「げっ!」
神速の早業で机についた両手を払われ、裕一はつんのめった。正面にいた祥子の体が翻ったかと思うと右後方七三コンマ四度、次の一瞬には裕一の腕を取り、上にねじ上げていた。
「て、ててて
……」
--ブスリ
……
「うぎゃ~~~~」
こだまする裕一の悲鳴に誇張はない。ついでに哀愁もなかった。
そして、真剣に見つめる篤志の評は絶賛に近いものであった。
「うーむ、見事
……」
静と動との間合いといい、一瞬の隙をつく早業といい、とても常人の為し得るところではない。まして一寸の殺気を発することなくやってのけた祥子の腕は、いずれ名のある流派の出に違いない。
「これは一献、手合わせを願わねば
……」(勝手にやってろ!)
--キーン、コーン、カーン、コーン
……
おっと、授業開始の合図である。さっきまで傍観を決め込んでいた生徒たちも、一斉に自らの席へと向かう。後には、机に顔を埋め、嗚咽交じりに震える裕一が残るだけである。
「や
……ヤクルトはないの?」(
……)
祥子のメモには次の一行が書き加えられた。
《集中力減退、バランス感覚の欠如、何より忍耐力がない。ついでに
……馬鹿》
「い
……いやじゃ~~~~!」
昼休みは裕一の悲鳴から始まった。教室の扉にしがみつき、奥襟をつかむ祥子の剛腕に必死の抵抗を試みる。
「無駄な抵抗は止めなさい! 保健室で私の集中治療を受けるんだから!」
たったひとりで何を集中治療するんだか
……。第一医師免許のないやつは治療行為はできんのだぞ
……。
と、理にかなった指摘をする勇気はクラスの誰も持ち合わせてはいなかった。
一見、世の男子生徒の羨望を集めても構わない、と思われる情景である。
保険医根岸恭子のような派手な、あるいは佐藤舞子に見られる清楚な美貌こそないものの、この祥子もまた黙っていれば充分かわいらしい、で通る顔立ちでありる。いくぶん短めなショートカットも女の子らしさを損なうほどでもなく、色鮮やかな眼鏡もおしゃれで、彼女が決して周囲の美の基準に対して無頓着ではないことを物語っていた。
確かに、黙ってさえいれば
……。
そして保健委員に尋常ならざる熱意を燃やしてさえいなければ
……。
「実は、新しい風邪薬が入ったの、使って見ない? 末期癌にも効果があるっていう幻の秘薬なんだから、どう?」
とまあ、こんなところである。
命短し恋せよ乙女、未来は君とともにある。現在は過去と未来をつなぐ一瞬の通過点でしかないのである。ちょいと目をつむってやり過ごせば、ほら何もないじゃないか。君は何も見なかったし、何も起こらなかった。違わないだろう?
鳴光学園保健室に置ける、新たな情報を書き加える必要がここにある。
根岸恭子の赴任によって一時的な沸騰を見た利用率はその三日後には氷点下にまで落ち込んだ。かの保健室の座敷童、内藤祥子の存在が何らかの因果の網の目に、しかもそれほど遠くないところで影響しているとのもっぱらの噂である。
「中々、微笑ましい光景じゃないか、うんうん
……」
ただ一人、冷静な篤志の評であった。
「お、俺は無実だぁ~~~~!」
--ガツン!
「うっ」
鈍い音がして、騒々しくも妙なる(他人の不幸は蜜の味)絶叫は途切れた。
意外なことに、裕一の後頭部にオーディオ機器をつなぎ過ぎて過負荷になった安アパートのブレイカーのごとく致命的な一撃を加えたのは祥子ではなく、まして親友の病状を心配する篤志の思いやりですらなかった。
「恭子先生!」
足首近くまで振り下ろされた拳はさっと翻り、広がった髪を後ろに払った。にっこりと笑むその切れ長の視線が祥子に向けられる。
「患者ね、内藤さん?」
「は、はい」
素直に返事をする祥子の瞳には尊敬の眼差しがありありと伺える。さよう、保健委員を天より定められた聖職として自負する祥子にとって、目前の保険医は神にも似た存在であった。
「ここは私に任せて、あなたはクラスにお戻りなさい」
一瞬の躊躇
……。だが祥子は従い、再び学園に平穏が戻った。
--ズリズリズリ
……
無気味な音とともに根岸恭子に引きずられる裕一を省みる者は、ごく少数派に留まっていた。
「いいなあ、裕一のやつ
……」
ぽつりと発せられた篤志のセリフは、この場にいたすべての男子生徒の所感を代弁していた。と同時に、今日に限っては、昼休みの主役は自分ではなかったことに、激しい憤りを覚えざるをえないのが篤志の為人であった。
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6 年下の男の子(う、ちょっと違うような)
二日続けて保健室のお世話になった裕一である。前回とはいささか趣が違うものの、またもや夢中であった。
『ぎゃはははは
……』
ラジオからはスイッチも押さないのにけたたましい高笑いが発せられ、
「きゃははは
……」
その横にはお腹を押え、涙を堪えながら、それでも笑い声は甲高い知恵の姿があった。
どちらにも共通しているのは、裕一にとってそれはそれは耳障りなものであるという事実である。
「な
……何が可笑しい!」
隠し切れない眉間の皺(しわ)、保健室での臨死体験をつぶさに報告し、また報告されたこの二人(?)にはどんな弁解もその用を為さないことは、他ならぬ裕一が一番よく知っていた。しかし口では勝ち目がない。まして腕力では圧倒的に不利であった。
「あー、可笑しかった」
目に涙を溜め、一息つくように知恵が言った。
「よく生きて帰ってこれたわね、お兄ちゃん?」
『帰巣本能というやつだな』
「
……(勝手なことを)」
「で、いったいどんな薬なんです、ラジカセさん? 話を聞いていると爆弾にしか思えないんですけど」
向き直った知恵の指摘は正しい。
『おお、それはなあ
……』
ラジカセの声の口調は淡々とし、緊張感あるいはそれに類するいかなるものも遥か地平の彼方にさえ見当たらなかった。
『その筋のネットワークでは回線がパンクしとるわ、わははは
……』
『症状としては私はやったことがないから知らんが、外面では主に従順、あるいは狂暴性を伴うらしい』
『検出不可能、更正例皆無
……防ぐ手だてもまったくない。ニトロのような爆発や燃焼から発生する光のパルスがな
……』
『同様のやつで音を媒介にしたのも研究中らしいぞ
……』
裕一の記憶はここで途切れる事となった。
* * * * *
「ふっ、みゃ~~っ!」
自分でも嫌になるぐらい奇妙で情けない叫び声を発し、裕一は目覚めた。昨日にも増して気分の悪い目覚めだった。しかし、昨日のそれはたかだか精神的な打撃を伴ったに過ぎない。今回は
……
「ふぁふぁ
……はみふんへふはぁ~~!(何すんですか!)」
ベッドから転がり落ち、鼻を押えてもがきまわる。
「何を大袈裟な、ただの気付けでしょうが!」
きりっと結んだ口元が意志の強さを思わせる。美貌の保険医の右手にあるのは、豪快にフタを開け放たれた氷酢酸の一リットル容器であった。その傾き加減からして、その内容量の大半は裕一の顔面に注ぎこまれたことが容易に推測できる。(死ぬぞ、普通
……)
もだえ苦しみながらも、裕一は目前の保険医の姿を拝顔する。音に聞こえた美貌である。はっきりした目鼻立ちに更に濃厚なメイクに隙はない。威風堂々とした立ち姿も視線を釘付けにして止まなかった。白く何の飾り気もない白衣はマントのごとく翻り、自慢のプロポーションを覆い隠すような無粋な真似はまったくしていなかったのだ。
派手なアクセサリーに縁取られた胸元は大きく誇張され、抗い難い吸引力をもって世の男性を引き付けるのも道理であった。
裕一とて並みの美的感覚は取り敢えず持ち合わせている。心惹かれるものがないといえば嘘であろう。
しかし、ああしかし
……
彼は何といってもあの「キャンディーズ」の時代と世代とついでに節操をわきまえぬ熱狂的な信徒である。優美なヒップラインを誇示するタイトスカートよりは、不必要なまでに短く、割れた薬玉のように無意味に(いや充分に意味はある!)広がったミニスカートに刮目し、細くカモシカのような足よりも遥かに、よくよく見れば「魔法使いサリー」のように太いふくらはぎに欲情してしまうのであった。
(その昔、ドリフに出演中の伊藤蘭を見て母が一言「この娘、可愛いけど足、ぶっといなあ
……」)
裕一が耳にしたらほぼ間違いなく血の雨の降る一言である。
とまれ、裕一と作者の母親の論争なぞ、虚実をわきまえぬ余談で文字数を稼ぐのも何であるし、先を進めよう。
何にせよ、裕一の心酔する一九七〇年代には根岸恭子のごとく、いけいけボディコンのたかぴーなアイドルは皆無であった。故に、彼の所感もいささか異なったものになったとしてもそれは無理もあるまい。
「ご、ご勘弁を! 女王様あぁ~~」(ずれることしかできんのか!)
--バキッ!
「ぶ、ぶぁぎゃ~~!」
穴よ穿て、とばかりに恭子の不条理なまでに高いハイヒールが裕一の顔面に炸裂した。
むろん、意志を持たぬただの無機物であるところのライトパープルのハイヒールがかような単独犯行に及ぶはずもなく、白くしなやか右ふくらはぎが共犯者として第一に上げられよう。もっとも、当のふくらはぎは悪びれもせず、自分に強靭な遠心力をもたらした肉感余りあるその太股にその罪を押し付けようと画策するだろうが。
--ドテン、ゴロゴロゴロ
……
あまりに見事にふっ飛んだために、恭子の意図したとどめの一撃--爪先を踵(かかと)に置き換えた掟破りの踵ツイスト--を加えることが叶わず(たまるか、んなもん!)、歯ぎしりとともに言い放った。
「ば、馬鹿にすんじゃないよ!」
鬼女を思わせる怒りのオーラがロングヘアを舞い上がらせる。細く優美な眉は釣り糸で釣り上げられたかのように見事なVサインをなし、向こう見ずにも自らの実力を省みず、偏差値にして四〇は上の大学を志望して日夜不毛な受験勉強に明け暮れて睡魔に抗い、挙げ句の果てに粘着力の弱い有効期限の遥かに過ぎたセロテープをべたべた貼って無理にでも見開かされたかごとく爛々と両眼は妖光を放った。(ああ、長い!)
それさえもが麗しく魅力を失わないのは美の七不思議ではあったが、彼女は口元を歪ませて壁に張り付いた裕一の前に仁王立ちになった。
既に永年連れ添った意識との別居状態も近い裕一には恭子を正視する気力もなかったが、彼女はむんずと裕一の髪を掴んで頭(こうべ)を上げる。
「さあ、答えてくれるわね、あの薬をどこにやったの?」
年端もいかぬ少年を懐柔する時特有の甘く鼻についた美声だ。
香しい体臭が裕一を襲ったが、氷酢酸で壊滅的打撃を被った鼻には何の影響も与えはしなかった。
「
……」
「ふっ、強情ですこと
……」
裕一の沈黙に、なかば嬉しそうに恭子はつぶやく。どう見てもわざとしか思えない勘違いであった。ハイヒールの鋭利な踵こそ、スペースシャトルがUボートと正面衝突するぐらいの偶然で逃れた彼の顎が、相応の打撃を被らなかったわけが無い。
粉砕こそしなかったものの、裕一の顎はものの見事に外れ、沈降した意識と同じぐらいだらしなく垂れ下がっていたのだ。たとえ意識がはっきりしていたとしても、裕一の心の絶叫--「祥子のばっきゃろー!」--は声となって発せられることはなかったに違いない。
意識とは既に離婚調停を待つばかりの裕一だったが、彼の命にしたところで、たまたま踏みいれた理髪店の理容師が狂信的なコレクターだったばかりに剃り落とされてしまった眉毛のように風前の灯火であった。
灯火といえば、恭子のこの後の行為もいささか奇妙である。何を思ったか白衣のポケットから一片のマッチ棒を取り出して火を灯す。
頼りない燐光は時折パチパチと線香花火のようにきらめきながら、裕一の鼻先に突きつけられた。
「さあ、よくご覧なさい
……」
相変わらずの美声だ。裕一は潜航記録を今にも塗りかえらんと意気上がる深海探査艇にも似た意識の片隅でそれを感じた。
(て
……手品でも見せてくれるのかな
……)(おのれというやつは
……)
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7 「やさしい悪魔」
「本当にこっちなの、ラジカセさん?」
知恵は駆けた。並み居る男子柔道部員を組み合うのも早々に投げ飛ばす勝ち気な少女である。運動神経が悪いはずもなく、疾走に伴う駆け音は不自然なほど低い。物理的振動でさえ運動量に割り当てられた究極の走法であった。
『ほれほれ、急がんと。そろそろ危ない頃だぞ』
知恵の耳には二股のインナーホン、不審を避けるため、彼女意外には例の声は聞こえない。
折りしも知恵が裕一の危機を聞きつけたのは、彼が根岸恭子に連れ去られてからしばらく経ってのことだった。健全な学園であれば、校内にウォークマンを持ち込むなぞ当然禁止されている。(たぶん)
昼休みということで、喧騒甚だしい級友の目を盗んで、知恵がウォークマンを耳にしたのがついさっきというわけだ。
声の言うには、裕一が保健室に連れ去られたという。しかも、裕一の部屋での昨夜の分析で、場所が場所だけにもっとも怪しいとされる保険医根岸恭子によって、だ。
(こんなことならお兄ちゃんのクラスにもっと足を運んでおくんだった)
中等部の校舎は、裕一のクラスのある高等部とはかなり離れた場所にあった。職員室や保健室なども別々に備えてある。知恵が校舎内の配置について詳しくないのも無理はなかった。
兄のクラスに出向いたことがないわけではないが、何かと出来のいい妹と比べられることを忌避する裕一のために最近は敬遠しがちとなっていた。
「おんや、知恵ちゃん! そんなに慌ててどちらへ?」
間延びした声が知恵を静止させた。いく度となく裕一の家に遊びに来たことのある篤志である。知恵とて知らない間柄ではもちろんない。
何しろ、知恵の今日の美少女ぶりを「この娘はきっとすごい美少女になる!」と最初に見出したのがこの篤志であった。当時篤志四才、知恵に至ってはわずか二才に満たない秋のことである。
「篤志君! 丁度良かった。保健室はどこ?」
詰め寄られた篤志は目を白黒させる。
「B棟二階の奥から二つ目
……」
「ありがと!」
礼を言うのも早々に知恵は駆ける。残像がまだそこに漂っているかのようだ。
(遠い
……まったく逆じゃないの。ラジカセさんたら
……)
知恵の愛らしい口元が苛立ちのために結ばれる。
さて、
残された篤志は一瞬茫然としたが、数瞬の後にその足が知恵を追っていた。常にハプニングを追い求める彼の本能がそうさせるのだ。
(何か面白いことが起こっているに違いない)
「ふ、ふはははははは
……」
--ドタドタドタ
……
そこに落とし穴が入っていたら間違いなく落ちる。そんな騒音振動ついでに衝突転倒お構いなしの走法であった。
「お兄ちゃん!」
果たして、保健室に駆け込んだ知恵の見た光景は、彼女の想像したそのどの情景とも異なっていた。
--ゴロゴロゴロ
……
ボリュームのあるヒップには、やや無理があると思える保健室の小さな丸椅子に優雅に腰掛けた根岸恭子。傍らにひざまずき、羨ましくもその太股に頬を擦りつけるようにして、まるで猫のように喉を鳴らしているのは、他ならぬ裕一ではないか。
「よしよし
……」
恭子に頭を撫でられて、いっそう嬉しそうに喉を鳴らす。
(な
……なんて情けない
……)
まだしも、逆さ張付で水樽に沈められていたり、膝に石畳を重ねて悶絶していた方が遥かに現実味があろうというものだ。何より、同情の余地が残されているだけ
……。
知恵はきつく目を閉じて何かを振り払うように頭を数回振った。
一瞬、真剣に考える。
(このまま捨ててしまおうかしら。拾い主もいることだし)
だがしかし、その知恵にして再考を促したのは他ならぬ根岸恭子の挑発的な視線だった。
(何、このちんちくりんは?)
是非は知らず、知恵はそう確信した。きっと口を結び、言葉を紡ぐ。
「兄を返していただけません?」
--シーン
……(これが一瞬の間つうやつやね)
「根岸先生?」
一瞬の沈黙は明らかな挑戦である。恭子にしてその意図を推し量るのは容易いことだった。
(おやこの小娘、抵抗するつもりなのね)
とはいうものの、年端もいかぬ少女に本気になるのも大人げない。宙に浮いたマニキュアの色も毒々しい右手を納め、裕一の顎をくすぐる。
「お子様は黙ってなさい。ここからは大人の世界なんだから」
すうっと細められた目もとがいかにも凶悪で、知恵を怯ませたものの、それも一瞬だ。少女は息をのみ、反抗を試みる。
「兄のような性格破綻者を相手にするなんて、よっぽど不自由しているんですね、オバサマ?」(おまえら、それでも兄妹か!)
「なっ!」
あからさまな挑発である。知恵の口もとから発せられたその指摘は、あどけない笑顔によってスーパーチャージャーのごとく加速され、恭子の胸に深々と突き刺さった。
見る見るうちに恭子の顔色が変わっていく。血の気が引いたように青白くなったかと思うと、今しも鍋に放り込まれることを待ちわびる赤く火照った焼け石のように熱を帯びた。
「何ですってぇ~~! 私のどこが『オバサマ』だというの!?」
勢いよく立ち上がり、その煽りを食って裕一は床に投げ出された。
「あうっ!」
ま、それはどうでもいい。今この時、妖艶な美女恭子と可憐な美少女知恵が対峙していたのだ。
「あら、お気に触りまして? やっぱり心当たりがおありなんですのね?」
口もとに手をやり、ほほほと笑う仕草を見せる。普段裕一の醜態を目の当たりにしてきただけあって、知恵は逆上のためのこれ以上ないという優れた牽引マニュアルの見本のようなものであった。腕力によって収拾するのも知恵なら、原因を作るのもまた彼女の最も得意とするところである。
「ケツの青いガキんちょに言われる筋合いじゃないわ!」
「あらやだ、わざわざ指摘しなくてもご自分でよくわかってらっしゃるのね」
「ぐ、がぎ
……」
ああ言えばこう言う、知恵のように聡明で、かつもっとも思考の柔軟な年頃の女の子と口争いするには、すでに二十歳を過ぎて思考の凝り固まった恭子にはいささか不利があったのは間違いない。
しかし、ここで容赦するような知恵ではもちろん、ない。
「お似合いのお相手をご紹介してもよろしくてよ。張り出したアンコ腹が自慢の学長先生とか
……」
「よ
……余計なお世話よ~~!」
裕一をそのハイヒールの凶牙にかけた時よりも、遥かに凶悪なオーラを発して知恵を睨んだ。穴の空くような鋭いそれではない。ダイヤモンドでさえ、身の危険を感じてその分子結合の固い絆に永遠の絶縁状を叩きつけ、自らを大気中に昇華させて逃れようとうめき、もがくかのような熱く濃厚な視線だった。
「い
……言ったわね~~! この発育不全の寸胴の人間単三乾電池娘が!」
「たん
……!」
(単三乾電池ですって~~!)
さすがの知恵も、これには怯まざるを得なかった。決してボキャブラリーが及ばないわけではない。自分でも意味のよく解らない雑言には、知っているどの罵倒文句よりも効果的な衝撃を相手に与え得るものなのだ。
しかし、毒気を空間の過飽和にまで含んだ凶悪な視線よりは、まだしも言葉と言葉のぶつかり合いの方が知恵には勝機が見える。
反撃の再開であった。
「あたしが乾電池ならあんたはダンブカーのバッテリーよ! タプタプ揺れて馬力はあるくせに気づかない間に空っぽになっているんだわ!」
罵倒
……間違っても婦女子との「本気」の口喧嘩は避けるべきだという希にみる見本であろう。争いに敗れるだけならまだいい、下手をすると己の人格崩壊にまで追い込まれる危険を敢えて賭そうとする人間は、常人である限り存在しないものだ。
ともあれ、この過激なる口争いもやや知恵の優勢のまま進んでいる。言わずもがな、細いコードを通して彼女には、謎の声というこの状況では非常に頼りになる味方がついていたのだ。
『そいでね、あいつは○△×が×××で、□○が(ピー)で
……』(こらあ! いたいけな少女に何を教えとるんじゃ!)
「おし、あんたなんか○△×が
……」(
……誰か、止めてくれ)
とどまるところを知らないかとさえ思われた二人の争いも、いずれ終演を迎えることになった。
「ハアハア
……あ、あんたねえ
……」
恭子の呼吸はもはや、自律神経による積極的な後押しがなければ持続不可能な状態にまで追い詰められていた。
「見たとでも言うのぉお~~~~~~~~!!!」
「見たあぁ~~~~~~~~~~~~~~~~!!!!」
「あ゛
……あはははは
……」
目に涙を溜め、崩壊寸前の恭子の最後の抵抗は、とてつもなく自信に満ちた知恵の返答によって脆くも撃破された。とどのつまりは、気迫の勝負であった。
冷たい床にへたり込む恭子。もはや美貌の保険医、根岸恭子が再び医療の聖職に復帰することなぞあり得なかったであろう。それほど、彼女の被った精神的打撃は大きかったのだ。
頑張れ根岸恭子!
たとえ根性はねじまがっていようとも、
世の男子生徒は華麗なる保険医としての君を待っている。
ハイヒール攻撃が嫌だって?
そんなものを恐れるやつらなんてほんの少数さ!
さあ、立つんだ恭子!
完全なる余談である。んでは、
時として、疲労の極致も近い知恵は喘ぎながらも入り口で茫然としている篤志を発見する。すぐさま知恵を追いかけてきておきながら、何度も窮地に立った知恵や裕一を助けようともせずにずっとそこで立っていた篤志を、である。
「ハア、ハア
……何、篤志君
……あたしの顔に何かついてる?」
声絶え絶えに声をかける知恵。篤志はしかし、いきなり自分の額を思いっきり壁に撃ちつけてた。
--ガンガンガン
……
「あう! う、ううう
……」
「し
……知らなかった
……あ
……あんなことを
……」
無理もない。先程の出来事をつぶさにその目、その耳に納めたのだとしたら、いかに厚顔無知で、ノアの洪水、ソドムの崩壊オール天変地異マイペース男の篤志であろうと、その衝撃は計り知れないものがあったであろう。
(まさか知恵ちゃんまでもあんなことを口走るなんて
……)
これよりほぼ一年余りに渡って、篤志は母親以外の女性と手をつなぐことはもちろん、言葉を交わすことすらできなくなったのだ。
『私は別になんともないぞ』(
……)
「ま
……まだよ!」
(
……!)
8 その気にさせないで(おっとぉ)
数秒、知恵が篤志にかまけていた間であった。もはや再起不能と思われた恭子は最後の悪あがきの余地を見出しす。
気力、体力ともにずたぼろの彼女であったが、篤志の登場という第三者の介入に今まで完全に一騎打ちと心の底から信じ込んでいた彼女に新たなる手段を思い出させたのだ。
「裕一、やっておしまい!」(あっと、こういうキャラクターだったわけね)
「うぉ~~~~!」
大魔人のごとく立ち上がる裕一。もっとも古(いにしえ)の銀幕の大スターと比するには彼の勇姿はいささか迫力に欠ける。
知恵の評は寸分の容赦もない。
「ロボコンのファイティングポーズみたい」(いつの生まれだ、おまえ!)
確かに滑稽である。しかし、彼の目はどこかの国宝級の寺院に納められた即身仏のように座っていた。本気であることにに変わりはない。
『洗脳されとる。遅かったなあ、智恵ちゃん
……ケラケラ』(楽しそうに言うな)
「今度は肉弾戦ってわけね。ほぉ~んとに悪あがきね」
知恵の口調には疲れが伺える。どちらかというと閉口したという方が正しかったのだが
……。
「うぁが~~!」
理性なき眼光は狂暴だった。猛獣のごとく知恵に襲いかかったが、あくまで彼女は平然としている。それもそのはず、スクランブル交差点の信号機並にころころ逆上する裕一を言葉であろうが腕力であろうと軽くあしらう彼女である。たとえ大魔人だろうがマグマ太子だろうが、知恵にとって何ら恐るるところはなかった。
--ひらり
「ぐが~~!」
一閃にして投げ飛ばされる裕一。
「き
……聞いてないわよ、そんなの」
あまりの不甲斐なさに目が点になる恭子であったが、勝機は見出したのだ。臆するところはない。
「が~~!」
「え?」
一瞬の焦りが知恵を襲う。
肩筋に冷たい風を感じ、下方からの裕一の突きをとっさに躱した彼女は、受け身の要領で床に転がり距離をとった。
「ちょ、ちょっと
……」
床に叩きつけられて悶絶したはずの裕一が反撃に転じたのだ。
(そんな馬鹿な
……)
自慢ではないが、知恵の知るところの裕一は三国一の根性なしである。一度叩き伏せられたのであれば、再び逆上したならいざ知らず、反撃に転じることなどあり得なかった。
「おっほほほほ
……。無駄よ小娘! あんたをやっつけるまで、何度だってかかって行くわ。誰にも止められなくてよ!」
「ぐるるるる
……」
無気味な裕一のうなり声が響く。
「ちぃ~~!」
いく度となく繰り返される裕一の攻撃、パンチありキックあり、チョップあり
……と、いずれも交規法を外れ馬券のごとく無視した派手な改造バイクと無気味な仮面をつけた住所不定無職の不良中年暴走族野郎の必殺技だが、もともと運動神経の欠如した彼の技を見切るのは容易かった。
隙を捉えて足を払い、傾いた裕一の後頭部に逆エルボーをかます。
「がっ!」
まだまだ続く。そのまま床に叩き伏せて腕を極めた。投げてもだめなら極め技というわけである。
絞め上げる。
「う、ぐぎ~~」
さらに絞める。
「っく、
……ぎ」
しかし、知恵にして最大の弱点がここに遺憾ながら指摘しなければなるまい。なまじ技を修練したばかりに彼女の技は一定のリズムを持たざるを得ず、同じ極め技と心に決めても最終的に自分の得意な脇固めにもっていってしまった。
無駄だというのに、裕一はもがく。
(く
……折れる
……)
たまらず、知恵の方から技を解いた。距離をおき体勢を整える。いかに豪胆といっても実の兄の腕をへし折ることまではできない。
折ったところで裕一は構わず反撃をしてくる。今の彼を本気で沈黙させようと思ったら、昨日の祥子のごとく「落」とすべきだったろう。
しかし、それも怪しかった。不幸にしてか幸いにしてか、華麗な足技を身上とする知恵には体重を乗せられる極め技はともかく、絞め技を実践的なレベルに駆使するだけの腕力には及ばなかった。
では祥子はなぜそれほどの腕力--正確には握力を発揮出来たか?
無論、ドーピングである。(あ、あのなあ
……)
余談はさておき、攻防は続く。死闘を収拾不可能と見たのか、根岸恭子はふと思った。
(今のうちに逃げよう)
9 「そよ風のくちづけ」
よくよく考えたら、ずっとここで今川家の今世紀最大の兄妹喧嘩を見守っている必要などかけらもないのだ。彼女は自分の不明にあきれ、そして行動に移した。
「あ、まっ
……」
慌てる知恵をよそに、出口に向かう。篤志はまだ悶絶していてなんの役にも立たない。
--ドン!
「わっ!」
「きゃん!」
唯一の逃走路に飛び込んだと思われた恭子だったが、肉弾の衝突音とともに弾き返された。
「内藤さん!」(また、ややこしいのが)
派手に尻餅をついた保険医の声が裏返っている。廊下には、同様に床に腰を落とした祥子がいた。
「いつから
……?」
「氷酢酸のところから
……」(鬼じゃおまえは!)
敬愛する保険医の手並みを拝見しようと始めから覗いていたのだ。血相を変えて飛び込んで来た知恵や篤志が現れた時にはさすがに身を隠したものだが。
えへへと照れ笑いをしてごまかす祥子。しかし、衝突で廊下に転がった例の青い薬ビンを視野に捉えて顔色を変えた。それは恭子とて同様だ。
「そ、そう
……あなただったの
……」
本来の獲物である薬ビンを前に、一旦は打ちひしがれた彼女の人格も本来の姿を取り戻した。能面のように細められた眼からは冷酷さしか感ぜられぬ。
とっさに飛び付いて薬ビンを確保したのは祥子の本能である。保健室の座敷童たる彼女には無造作に転がる薬なぞ、たとえ劇薬であろうと許せないのであった。また、内なる魔性は知らず、碧色たる中に輝く金色の宇宙を浮かび上がらせたこの危険極まりない秘薬に、究極の美を見、魅せられてしまったのも彼女の為人であった。
「お渡し!」
覆い被さるように詰め寄る恭子。
「だめ~~!」
追いかけようと身を返した知恵だが、その隙を裕一に突かれた。腕を取られると同時に力任せに引き倒し、首を絞める。
「くぅ
……」
自我とは既に縁のない裕一である。指先に込める力に何の容赦もなかった。
『仕方ないのお
……』
ずっと傍観を決め込んでいたのか、ラジカセの声が知恵に囁きかけた。
『助けてやろうか?』
「うぁ
……」
(早くして
……)
声の出ようもない知恵だったが、それを肯定と受け取るか否定と取るかは自由であった。
ともあれ、ようやく佳境である。恭子が薬ビンめがけて取り付いたと同時に、保健室備え付けのスピーカーからそれは発せられた。
--タン、タータンタ、タッタンタタンター
……
ベースとピアノの低音の効いたイントロだった。
続いて歌声が
……
『は、はん、ハハンは~~』
その最初の一音を待たず、裕一の絶叫がこだました。
「誰じゃあ~~! そんなダミ声で『その気にさせないで』を歌うんじゃね~~!」
知恵の首は兄の凶悪な指から解放され、裕一は握り拳を振り上げ雄々しく立ち上がった。ポーズはロボコンのままだが、気迫だけは蒸着したばかりのギャバン並には昇格していた。
(正気に戻った
……????)
「なっ!」(暗示の切れたことに自分の目を疑う恭子の驚愕)
「まったく!」(相変わらずの兄の節操のなさにあきれる知恵)
「えっ!」(意味が解らず、とりあえず驚いている祥子)
「わ、ははははは
……!」(篤志
……何も言うまい)
この中でもっともすばやく行動を移したのは、意味が解らないだけという唯一の理由で現実への帰還がわずかに他の三人を凌いだ祥子であった。
「ひっ!」
低い、恭子の悲鳴がこぼれ落ちる。
ワイアット・アープもかくやと思われる早撃ちであった。祥子の右手がもみ合っている薬ビンから離れてから、背中に隠し持っていた注射器を抜き取り、筋肉弛緩剤の詰まったアンプルをピストンの摩擦係数の限界を遥かに超えた速度でその頼りない筒に納めてから狙い違わず恭子の右の二の腕裏の静脈に突き立てるまで
……その間わずか零コンマ三秒
……。
「な、何なの
……」
恭子の崩れ落ちるのは早い。迅速をもって旨とする祥子のオリジナルブレンドであった。
「ふぅ
……」
その傍らに、悠然と立ち上がった祥子は不敵に笑みを浮かべた。手にした熱まだ冷めやらぬ凶針にキスをする。見る者に戦慄を感じさせて止まない、それは一人の乙女の勇姿であった。
「聖地たる保健室にあなたは似つかわしくないわ。患者にはもっと深く美しい愛をもって接してあげるものよ。ねえ、裕一君?」
残念ながら、ぞくっとするほどの魔性を含んだ微笑みとともに投げかけられた彼女のセリフはものの見事に無視されることになる。
「ちがーう! そこはこう歌うんだ。いいか!」
校内着用のスリッパを口もとに構え、裕一は絶叫する。
「あのっひとぅわ~~あっあくまっは~~」
いつしか、曲は「やさしい悪魔」へとその在り様を変えていた。
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エピローグ 「あなたに夢中」
というわけで、生まれる世代を間違えた遅生まれアイドルおたく少年、裕一と鳴光学園保健室をめぐるこの事件は何の真相も明らかにせずにひとまずの終わりを見せる。
「結局「ブルーフレイム」って何だったんだ?」とか「一介の保険医がそんな大層なもん持っているわけがないだろう!」さらに「バックに巨大な麻薬組織があるに違いない」などといった憶測や不満が飛び交うであろうが、これはまた次回にでも語られる(かも知れない)であろう。
ともかく、この日から鳴光学園に新たな日常風景が加えられることになった。
「か、勘弁してくれ~~!」
「待ちなさい! 今日こそ保健室であたしの治療を受けてもらうから! あたしの愛で絶対更正させてみせるわ!」
逃げ惑う裕一、追う祥子をもはや気にとめるものはいない。愛情にも様々な形態があってしかるべきだ。
事件の目撃者が、当事者たちの他に存在したかどうだかは定かではないが、密かに「保健室の座敷童」と並んで学園内の男子生徒を中心に囁かれるようになったもうひとつの異名がある。
--医療界のカラミティー・ジェーン
……
保健室といえば、何故か一切の問題にもされなかった保険医根岸恭子は、今なおそこにいた。
「熱いお茶が美味しいわ
……」
窓の外を眺める横顔も眩しい。黄昏の良く似合う女になっていた。
「うあ゛ぁぁぁ
……」
「こらっ! 静かに授業を受けんか!」
授業中に後ろの女生徒に背中を指差され、完全に女性恐怖症になった篤志はニョロニョロのように悶え、教師の指摘の矢面に立つ。
「きゃははは
……」
「佐伯君おっかしい~~」
相変わらず、篤志は婦女子の人気者である。
さらに書き加えるなら、粋な学長の気まぐれか、はたまた健全な社会人生活に嫌気がさした変人教師が血迷ったか、昼休みには古きよきメドレーがカラオケで流れることとなった。
『くぉ~んなひろ~い、せっかい~のな~か
……』
「何度言ったらわかるんじゃい! 「あなたに夢中」はなぁ~~!」
「隙あり~~~!」
「あんぎゃ~~~~~~~~!」
祥子の雄叫びと、裕一の悲鳴は今日も轟き渡る。何はともあれ、鳴光学園は今のところ平和であるに違いない。きっと
……
- おわり -