17番
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6月ともなれば、梅雨の真っただ中だというのに、ここ数日は雨の気配もない。連日降り注ぐ日差しは真夏のそれで、日焼けを気にする私に対してまるで容赦なかった。
「あ
……あっついなぁ」
山あいを田畑が埋め尽くす田舎道、県道とは名ばかりで乗用車どころか、田植え機を乗せたトラックが15分ぐらい前に一度通ったきりだ。あと2時間もすれば日差しも和らぎ、夕刻ともなれば多少は車の往来も増えることになるだろうが、それよりも家路を急ぐ中高生たちの自転車が燕の往来よろしく細い風と、小鳥のさえずりにも似たおしゃべりを伴って駆け抜けていくのが眩しくて、そうなる前に今日は早めに仕事を終えて家に逃げ込みたくなってしまう。
そんな時は、実際にそうしてしまえる今の仕事がありがたいとも思えた。いまだに、そんな思いに捕らわれてしまうことがわかっていて、それでもかつて自分が通学のために通ったこの道に立ち寄ってしまうのが、自分でも可笑しかったり情けなかったり
……。
この先の、その閉じた思い出のある場所に近寄ることもできず、しかし離れることもできずにただその周りを巡るように私はこの街にとどまり、いたずらに重ねてきた歳月の意味を考えるといたたまらない想いに駆られた。
(やっぱり今日はもう帰ろう)
そう諦めにも似た感傷も一緒に閉じてしまえばいいと、白い日傘を閉じてしばしの休憩をともに享受していた古びた自転車に手をかけたとき、その声が聞こえてきた。
1
「すいませ~ん、そこの人!」
おや? 車もなければ生活が成り立たない、こんな田舎道を歩いてくる男の声はまだ遠かった。しかし周囲に他の人間の姿のないことで、それが自分に向けられたものであることは疑いようがない。なんだろう? と思いつつ、相手だけが歩いてくるのを待つのは何やら申し訳ないような気がしたので、私の方からも自転車を押して近寄ることにした。
「いやあ、この先に県高があったはずなんだけど、何せ昔のことなもんだから記憶が曖昧でね。知ってたら道順を教えてくれませんか?」
市内を走るのは赤字も甚だしいローカル線が1本のみ。最寄りの駅からだとしても、そこから歩いて来たとなれば結構な距離だ。それと知らずにタクシーも呼ばず、市内で1つしかない県立高校まで歩いて行こうと思うなど、地元の人間には考えられないことではあった。
しかし、会話のアクセントが微妙になじみ深いもので、それに正式な名前ではなくて「県高」と呼ぶあたり、男が少なくとも地元の出身であることは明白だった。
それに、その顔には確かに見覚えがあった。私は驚いた表情こそ強い日差しと帽子の陰に隠して、こんなところでのまさかの再会をどのように演出するべきかを先ほどから考えていたのだ。
「くすっ、この先で正解。町並みは変わったけど、墓地横の近道も残ってるわよ。忘れるなんて、そんなに物覚えが悪かったっけ、荒瀬君」
「あれ、なんで名前って
……ひょっとして岸本か?」
麻編みの日よけハットを両手で持ち上げるとさすがに思い出してくれたようで、目を丸くして驚く顔を見たら思わず笑いが込み上げてきた。
「あははっ、懐かしいわねぇ。何年ぶりかしら?」
「さあて、20年ってとこか、昔もむかし、お互いいい齢になったもんだ」
「ちょっとぉ、再会して一番に齢の話?」
「何言ってんだ、同い年に何の遠慮がある?」
「それはそうだけど
……」
ふてくされたように口を尖らせて多少の抗議の視線を送ってみる。
20年ぶりに再会した荒瀬幸次は昔に比べて口が悪くなった。それとも人が悪くなったかも。私の知る高校時代の彼はもっと礼儀正しく、どちらかというと口数も少ない方だった。サッカー部のキャプテンで、別にちゃらちゃらした軽さもなければ、厳めしい悪さもない普通の高校生だった。しかし、サッカーに関してはストイックな生真面目さが印象的だった。
「少し雰囲気、変わった?」
「齢の分だけはね。処世術のひとつやふたつは身に着くさ」
それなりの苦労は人生にはつきものっていう意味だろうか。それぐらいなら私にだってわかる。
「県高に行くの? 今から?」
平日の昼下がりにふらふらしているようでは
……と、この長い不景気も手伝って心配ごとの種にしてもよかったのだけど、見たところ身なりはさっぱりしていた。齢相応に背広姿というわけではないが、ラフなジーンズとスニーカー、上はTシャツと半袖のパーカーとなれば、週末の休みには気軽に公園などに出かける家族サービス中のお父さんを連想させる。
もっとも、そんなのテレビの中だけの光景で、こんな田んぼだらけの田舎ではまずお目にかかれない代物だった。近くに別荘なりをかかえる避暑地でもあれば別なんだろうけど、日曜日に畑仕事ならまだしも、公園って
……あれ、公園ってどこにあったっけ? まぁ、どこを見回しても、緑に不自由するような土地柄ではないんだけどね。
「何、笑ってんだ?」
「え? ううん、こっちのこと」
おかしな妄想に、知らず知らずのうちにニヤニヤしてしまっていたようだ。怪訝そうな顔で私を見てる。
「まあいいや。急に懐かしくなって田舎の空気を吸いに来た。ま、土産もあるし、母校の様子でも見に行こうって思い立ったわけだ」
「土産って、そのボール1つだけ?」
「そだよ」
紺色の絞り袋の中身は形も大きさも、普通のサッカーボールであることは間違いないように思われた。むしろ、それを手にしていたからこそ、私は一目で彼が荒瀬幸次であることに気付いたようなものだ。とはいうものの、かわいい後輩への土産にするんなら、1ダースやそこらは奮発してやればいいのに。
「何か言いたそうだな?」
「言っていい?」
「却下っ! どうせケチくさいヤツだって思ったんだろ?」
「うん、しっかり思った」
「あのなぁ
……」
苦々しそうに顔をしかめて私の方を見る様子は、かつての彼にはなかった。いや、そうでもなくて気心の知れた同級生やチームメイトたちとなら、そんなやりとりもあったように思う。
「岸本もだいぶ変わったな。前はもっと
……なんていうか」
「いつまでも純情な学生なわけないでしょ? 今じゃ私だって立派な田舎のおばちゃんだ」
舌を出して多少は自虐的になってみる。私だって、もう乙女を気取る齢じゃないことぐらいわかってるのさ。さすがに、これには彼も呆気にとられた目をしたが、
「おお、立派りっぱ」(パチパチ)
「こらぁ、そこはフォローを入れろっ!」
「あははははっ!」
不思議なものだと思う。高校時代は声をかけるのも気恥ずかしく、そうそう親しく話したこともなかった。それが、久しぶりの再会だというのに、こんなにも
……近い。それを口にすると、きっとまた年齢の話に舞い戻ってしまうのだろうけど。
「なあ、岸本はこれから暇か?」
「お?」
「暇なら一緒に県高まで付き合わないか? せっかくだし、な」
実はそう言ってくれるのを待っていた私がいた。だってそうでしょう? 20年ぶりの再会が、道を尋ねるだけで終わってしまうなんて、あまりに呆気ないと思うもの。
「仕方ないわねぇ。『生まれ故郷の田園の真ん中で道に迷って遭難!!』とか、そんな魅力的な新聞記事は諦めてあげるわ」
「ひ、ひっでぇ!」
「あははっ」
きっと、私の方がもっと人が悪くなったに違いない。
2
「おいおい、いいのか? こんなとこに置いといて」
「構やしないわよ。だぁれも盗ったりしないから」
「うーん、都会じゃ考えられん」
「荒んだ生活してんのねぇ。哀れだわ」
「そ、それは否定しなきゃいかんような気がする
……」
こんな道端に、カギをかけたとはいえ自転車をほったらかしにすることへの抵抗が、まるで自分が浦島太郎になったような気分なのか、実はその逆なのか、どっちだ? と私に聞かれても「知らん」と答えるだけだった。
お気に入りの日傘は、一瞬どうしようかと迷ったけど、結局置いていくことにした。仕事道具の入ったショルダーバックだけは、これは置いていくわけにはいかず、持ってやるよと手を出す彼に、いやいやこれは顧客の個人情報満載の大事な書類だから、とお断りした。
自転車に二人乗りでもすれば、十数分もあれば県高には到着できる。しかし、それだと部活の始まる放課後には早く着きすぎてしまうだろう。私たちはそのまま歩いていくことにした。
「今は何をしてんの? こっちには何度か戻ってきた?」
普通に歩けば1時間ちょい、この日差しの中ではちょっとどころではなくて大変そうだが、きっと移りゆく景色も、萌え立つ田舎の匂いさえもがおそらくは懐かしいのだろう、駅から歩いて向かおうとした彼の心情を察して文句は言わないことにしよう。それに、都会暮らしが長くなって快適な空調に慣れ切ってしまっているに違いないかつての同級生に対して、地元っ子の私が先に音を上げるわけにはいかないのさ。
荒瀬幸次は、その私の質問には逆の順序で答えを返した。
「大学に入ってすぐに、親の方が仕事の関係でこっちに出てきてしまったからな、法事で2~3回戻ったぐらいだ」
「あらまぁ」
そういえば同窓会にも顔を出したことはない。幹事の子をはじめ、心配する声も聞かなくなって久しかった。
「今は普通に働いてる、っていっても小さい会社で気楽なもんだが、趣味で始めた副業の方がものになりそうなんで、そろそろ考えどきかなぁ」
ほほぉ、サッカー一筋だった荒瀬君に趣味とな。それにも興味はあったが、
「そっちはどうなんだ? 仕事中だったんだろ?」
「ま、まあね。私はいわゆる保険の営業よ。顧客回りをしてんの。ほら、長生きしてもらった方が会社にとってはいいじゃない、時々挨拶がてらにね」
だから仕事も自分の裁量で融通がきく。いきなり誘われても、ほいほいついて行ったりもできるのさ。だけど、いくら機会があっても母校には足が向かなかった。こんなことでもなければ
……。
「大変そうだ。都会じゃ普通だけど、こっちでも専業主婦ってわけにはいかないんだな。子供も塾や受験やらで何かと金がかかる頃会いか」
「へっ?」
「あ、ってことは苗字も変わってるか。すまん、気づかなかった」
ああ、そういうことか。そうね、この齢だもの、私も気づかなかった。
「岸本のままよ」
「え?」
「結婚はしてないの。だから岸本則子のままというわけよ」
「嘘だろ?」
その「まさか」という顔つきは疑っているというよりも本当に予想外で驚いているようだ。
「あっ、今『お局様してんのか』って、そう思ったでしょ?」
「なっ! そ、そんなことは思ったりはしないが、こんな田舎だし
……」
たしかに、私の友達関係もけっこう若い頃に相手を見つけて嫁いでいった。三十路も超えると周囲の目もあるし、親も焦ったりするものだ。小さな村社会だと、そんな窮屈さもあって時々それが嫌になることもあった。
「私の親は、もともと工場のプラント移転でこっちに移ってきたから、感覚が都会派であまりそういうのはうるさくなかったのよ。兄弟も多かったし、妹たちなんか矢継ぎ早に嫁いでいっちゃって、今じゃ『お前はずっと家にいていいぞ』って言うぐらいだもん」
「そ、それもどうかと思うぞ」
呆れた顔で驚いている。彼にそんな顔をさせるのが、私はそろそろ快感になってきたのかも知れない。
「いいじゃない、それより、そっちこそどうなのよ?」
「俺は結婚はしたぞ」
「おおっ!」
表には出さないものの、実はけっこうショックだった。当然と言えば当然の答えで、覚悟はした上での問いかけだったのだ。20年も前に抱いていたかつての憧れに、決着をつけさせるのにちょうどいい。突然の再会に、妙な期待をするほど私は若くもないし、子供でもないのさ。
「ま、続かなかったがな」
「えっ?」
これは予想外だった。それはつまり
……。こういう場合はどういう反応をしたらいいんだろう?
「そ、そんなんで勝ち誇った顔しないでよ」
「してないしてない
……」
いいや、していた、というよりもそう見せた? さらりと言ってのけたあたり、自分よりも大人びて見えて負けた気になる。それなら、
「へぇ、それで、どんな人だったの?」
「そうだなぁ
……、いや、やめとく」
「そう?」
「悪くいうつもりもないが、良くいうと未練っぽくてもっと嫌だしな」
「あははっ、そりゃそうだ」
内心、ほっとしていた。ちょっとした意地悪のつもりだったが、さすがに悪かったか。少し反省している。
「しかし、もったいない。知ってたか? 岸本、けっこう人気あったんだぞ?」
「何よそれ?」
しまった、そこで反撃してくるとは。
「先輩の代のマネージャーって二人とも可愛くて羨ましいって、よく下の連中から言われたもんだ」
「そ、そういうのは本人には聞こえてこないものよ」
それに、可愛かったのは私じゃなくてもう一人のマネージャーだった久美の方だ。性格もよく気がついて優しく、小さい頃からちやほやされていた。でも、せっかくだから自分も混ぜておいてもらおう、なんて考えたのは我ながらずうずうしくなったものだと思う。
「ま、周りの男どもは何やってたんだ? ってことだろうな。あはははっ」
陽気に笑うその背中に、自分もその一人でしょうが、と揶揄するのは、かつての私の気持ちと照らし合わせると、とても口にはできなかった。
「マネージャーっていえば、宮下だっけか? 今はどうしてんだ?」
「久美? さ、さぁ?」
「知らないのか? けっこう仲良さそうだったのに」
「さっさと結婚して、二十歳の頃には子供も産んでたわ。それ以降のことは、あまり連絡も取り合ってないし
……」
宮下久美は、私の小学校時代からの付き合いで、まあ親友といってもいいほどの間柄だった。高校に入ってからも、一緒にサッカー部のマネージャーになろうと相談して決めたぐらいなのだ。
「気になるの?」
「別にそういうわけじゃ
……ただ、女同士の友達って一生もんだというイメージがあったからな」
一般的にはそれはあながち間違いじゃない。互いの立場や上下関係、対抗意識など、様々な関係性が介在してしまうのが男同士の間柄だった。それに比べると女の子同士は、単純ではもちろんないのだけれど、精神的にはぐっと近い。というよりベタベタしてるのだ。
考えてもみるといい、男同士で手をつないで仲良くしているような光景はあり得ない(あったら嫌だ)。しかし女同士ならごく普通に見られることで、肉体的に近い分、より結びつきは強くなる。もっとも、その逆で嫌いな同性の相手には容赦ないという一面もまた一方ではあるわけだが。
だから、というわけでもなかったけれど、ほんの些細なことが原因で私は久美と袂を分かってしまった。別に嫌いになったわけではない。でもこの十数年、顔を合わせることもできないでいた。
「そお? 荒瀬君も久美のことが好きだったんじゃないの?」
「俺が? まさか」
あらあら、一言ですか?
「だって、久美はあんたのことが好きだったのよ。知らなかった?」
「それは知らなかった。ってか『惜しいことをした』とか言わせたいのか?」
「その通りっ!」
久美が結婚するって聞いた時、そんな学生時代の思い出話が、いつの間にかいさかいの種になってしまった。今思えば、どうしてあんなに怒ったのだろう? 久美も、私も
……。
明日にでも、今日のことをネタにもう一度連絡をとってみようか。こんなことで20年近くもこだわっていたんだとしたら、あまりにバカバカしい。いっそのこと、それも笑い話にできるような気がするし。
「そんなわけあるかよ。あの頃、俺が好きだったのは岸本、お前の方だったんだぜ」
「ひぇ?」
何を突然
……というか、今頃になってそういうのは反応に困る。
「今更そんなんで照れるような齢かよ、こっちが驚いでしまうわ。ま、俺もガキだったってことだな。だははっ」
確かに変わった。しかも悪い方にではないように思える。気持ちは若いころのままに、むしろ子供っぽいところもあるが、重ねた齢の分には余裕が見られた。苦労もしただけの価値はないと甲斐がないというものだ。それは私にも言えることだ。
「と、突然だからびっくりしただけよ。あんたこそ今頃になって、恥ずかしくはないわけ?」
「すっきりしたいお年頃なのだよ」
「よく言うわね」
「でもまぁ、そうしているとまだ乙女で通るな、岸本。今からでもいい男でも見つけたらどうだ?」
「ば、バカなこと言わないの!」
「あははははっ」
そんなことを口にできる気安さの、その10分の1でも、なんであの頃に持っていてくれなかったの? と、笑いながら先を進むその背中に向かって舌を出してみる。
こっちはちっとも「すっきり」なんかしていないのに。
3
「よぉっ、『大先輩』のご登場だぞ!」
どひゃあ、開口一番がそれ? 準備を始めたばかりのサッカー部の子たちがきょとんとした眼をしているじゃないの。それでも礼儀は叩き込まれていたのか、
「し、失礼しました先輩!」
「ようこそおいでくださいましたっ!」
「見学、いいか?」
「もちろんですっ! ごゆっくりしてってください!」
現役の部員たちは、おそらくまだ1年生たちだろう。口々にそう叫んで挨拶をしていき、その中の1人が私たちを部室に案内してくれた。
「誰も知った顔がないってのはいいよなぁ。いくらでも法螺が吹ける」
「あっきれた。バカなことをしてOBの顔をつぶさないでよ?」
「気にしない気にしない」
「ほんとにもう」
とはいうものの、十分「大先輩」で通るんじゃないか、と私は思っていた。真面目さだけじゃキャプテンとしては通用しない。同世代で、他の誰よりも実力があったことはこの私が証明してあげてもいい。
「ちわーっす! はじめまして、キャプテンの都筑です」
話を聞いて飛んできたのだろう、6月の今の時期だと代替わりする前の3年生になるのだが、その割には随分と小柄だ。しかし、浅黒く健康的に日焼けした顔は精悍で頼もしそうなキャプテンだった。案内してくれた1年生に代わって部室に私たちを招いた。
「あ、これは土産だ。本物だぞ!」
「はっ、ありがとうございます!」
たった1つだけの土産のサッカーボール。「本物」だと聞いて中身を取り出したそのキャプテンは奇妙な顔をした。
「ゴン? ヤマモトカズ? ラモス
……何です?」
それはサイン入りのボールで、白地にいくつものサインが書かれていた。
「だあああっ! 今どきのサッカー少年はJリーグ黎明を支えた名プレイヤーの名も知らんのか! ええいっ謝れ! ジーコに、そして釜本にも謝れっ!」
「あ、ああああ、いいからいいからっ!」
急に取り乱して暴れ出した、もちろんそれは演技だとはわかっていたけど、それを押し止めて私は愛想笑いでキャプテンに目配せした。
「と、とりあえず、ありがとうございます!」
「はぁはぁ、まあ、こんど調べておくように
……」
「くすくす、ごめんなさいねぇ。軽い冗談よ」
その場は取り繕ってはみたものの、それでも「本物なのに
……」とぶつぶつ言ってるのをあえて無視した。
「失礼ですが、どれぐらい前の先輩ですか?」
「っと、そうだなぁ、かれこれ
……」
「20年ぐらいかな」
またとんでもない法螺でも吹くんじゃないかと、先に私が答えた。
「私はその時のマネージャーだったのよ」
「そうそう『大マネージャー』様だ。失礼のないように、ぐへっ!」
「何にでも『大』をつけてんじゃないわよ!」
かわいい後輩たちの前だけど、手加減はいらないだろう。思いっきり脇腹を肘で突いてやった。キャプテンは目を丸くしたようだが、急に笑顔になって。
「わかりました。気をつけます」
「よしよし、いい心がけだ」
はぁ、なんでそうなるのよ。しかし、緊張がほぐれたのだろうか、そのキャプテンは親しげな表情で、
「それじゃ、もしかして知っているかも知れませんね」
「ん?」
「わが県高サッカー部の伝説の由来ですよ」
「伝説? そんなもんがあったっけ?」
「さぁ、私は知らないけど?」
まあまぁ、と部室の中に招き入れられた私たちは、そこで思いもよらないものを見せられた。
「こ、これって
……」
「なんでこんなもんが?」
それは、一着のユニフォームだった。白地に青い襟と袖口、そして縦縞の入ったそれは、私たちの時代と同じもの。しかも、その背番号は、
「伝説の17番です。どういうわけか昔から壁に飾られていて、誰もその由来を知らないんですよ。先生方に聞いてもわからなくて。でも、きっとすごい先輩のものだったに違いないって歴代の先輩たちから受け継いできました。俺たち、毎年新入生が入るとこの話をしてみんな頑張ってるんです! もし、知っていたら教えてくれませんか? どんな伝説だったんです?」
純粋な、そしてひたむきな眼差しだった。誰もその内容を知らないにも関わらず、それを大切に受け継ぎ、サッカー部を盛り上げてきたんだろう。
「中川だな。たしかあいつの代だけだ。全国大会に進んだのは」
「おおっ、やっぱり!」
中川といえば、私たちが3年生になったときに新入生として入部してきた子だ。最初から抜群にセンスがよく、目立っていたのでよく覚えている。小柄できびきびした動きをするかわいい感じの1年生だった。
「どうぞ
……」
今のマネージャーの子たちが、備え置きのコップにお茶を入れて持ってきてくれた。伝説の話と聞いて、興味深そうにこちらに視線を向けている。あんな時代が私にもあったんだなぁ、と思うとちょっと照れくさい。
「どんな選手だったんですか、中川先輩って!?」
「そりゃ、怪物みたいなやつだったぞ。襲いかかる敵をちぎっては投げ、ちぎっては投げ!」
「はぁ?」
そう言って煙に巻いては現役部員たちをからかっているのを、ため息交じりに眺めながら、いずれもう少し真面目な話にはするつもりなのだろうと達観しつつ、やっぱり納得いかないものを感じて、言わずにはいられなかった。
「中川君じゃないわ」
「えっ、それはどういう?」
私は勧められた椅子から立ち上がって壁にかかっているユニフォームに近づいた。その裾を手にとって、
「気づいているんでしょ、この数字?」
「そ、そうだった。それも尋ねなきゃって思ってた。何です、2542って?」
それは黒いマジックで書かれていた。年代物のユニフォームは、もとは白地といってもかなり色あせていて、照明の暗い部室の中ではその数字もあまり目立たなくなっていたが、それでもはっきりとそれは残っていた。
「中川君は、練習や試合の時以外はおとなしくて控え目な子だった。自分を『伝説』にするようなそんな厚顔無恥なことはしないし、させないと思う」
「それじゃ
……?」
「中川君の前に、このユニフォームを着てたのって、誰だったかしら、ね?」
この数字の意味を知っているのは、中川君と、私と、そして本人だけ。その当人は、今頭を掻きながらも、私に睨まれてどうやら観念した様子だ。
「先輩?」
「2つ上に森本先輩ってのがいてな。サッカーが上手くなりたきゃリフティングをしろっていうのが口癖のような人だった」
荒瀬幸次は立ち上がって、
「それを真に受けて、毎日放課後になると真っ先にグランドに出て、一人でボールを蹴っていたバカがいたってことさ。リフティングもこれぐらいの回数になると30分近くかかるんだ。その頃には他の連中もやってきて練習が始まるからそれで終了。そんなに大した記録でもないさ」
「な、なるほどぉっ!」
「中川君は、そんなあなたをとても慕っていたわ。どうしても欲しいって頼み込まれてこの番号を譲ったんでしょ?」
「まあな
……」
1年生は、その当時の3年生が引退して、2年生に代が移ってからでないとユニフォームももらえず、当然試合にも出ることはできなかった。通常はレギュラーナンバーは決まっていたから、3年生のユニフォームは当然2年生が引き継ぎ、さらに2年生は今まで自分たちの使っていたユニフォームを1年生に譲るのが慣例だった。しかし、中川君は、1年飛ばしで当時3年だった彼からそれを譲り受けたのだ。
「まったく、どうしてこんな真似をしたんだか、中川のやつ
……自分の方がずっと才能もあて、実力もあったろうに。もちろん誇れるだけの結果も残した」
そう言って壁の背番号に手を置いた。
(荒瀬君
……)
「なぁ、岸本。俺がなんで1年のときに貰ったこの番号を、2年のレギュラーになっても変えずに使ってたと思う?」
「いえ、知らない」
「だよな
……」
4
「公式戦でもないわけだが、秋の市民大会には2年のレギュラーチームと、1年生だけと、2チームを出場させるのは今も変わってないよな?」
「は、はいっ! 毎年2チーム出してます」
それは、市の主催するお祭り的な大会で、県高の他にも私立高のサッカー部や、地元の中学生から企業のチーム、町会や商店街の有志までもが自由に参加できるような気楽な代物だった。といっても体格のいい企業のチームは強かったし、初めて自分たちで試合のできる機会でもあった1年生にとっては試合経験を積めるいい機会でもあった。それでも、2年に1度は県高のレギュラーチームが優勝していたものだ。
それは私や久美にとっても、1年生チームのマネージャーとして全部をこなす機会でもあり、二人で相談しながら準備して、試合では一生懸命応援したものだ。
「1年の秋、俺は1年生チームを率いて、そして決勝戦でレギュラーチームと優勝を争った」
「うん、それは覚えてる。負けちゃったけど」
たしか結果は2対1、なかなか点の入らない拮抗した試合だった。それでもやっぱりレギュラーは強く、じりじりと押し切られてしまった感じだった。得点を挙げたのも、ほとんど攻められっぱなしで相手ゴール前にボールが行くことすら稀だったのが、偶然クリアできたボールを、残っていた1年生のフォワードが先に追いついてゴールに結びつけたまぐれのような代物だったのだ。
「勝てると思ってた。地力で敵わないとはわかってたけど、俺が当時のキャプテンをマンツーマンで抑え込み、まともにゲームメイクをさせなかった。それは作戦通りで、試合は互角に持ちこめた。しかし、それだけじゃダメだったんだな。ゲームメイカー同士がつぶし合ったら、経験の浅い他の1年だけじゃ得点チャンスを作れなかった。完全な作戦ミスさ」
「でも、そんなの仕方ないじゃない。試合は互角だった。みんなよく頑張った方だよ」
「その通り。誰もそんなことを気にしちゃいない。だが、俺は勝てる気でいたし、勝ちたかった。ま、そんな思い上がりもあって、その時の背番号を続けることにしたんだ。この番号に本当に勝ちたいと思った試合で勝たせてやりたかった、ってのもある」
思い入れの番号。彼にとって「本当に勝ちたかった試合」というのはいったいどれだったのだろう? でも、それを考えてみて私は胸を締め付けられた。そ、そうだった、彼は
……
「でも違ったんだな。そんな軟弱なことを考えているような負け犬には勝利はやってこない。結局2年生でレギュラーになり、キャプテンを任されたにも関わらず、俺は一度も公式戦のグランドには立てなかった」
それは冬の選手権に続く予選の試合中の事故だった。右足を複雑骨折した彼は、2度の入院と手術を重ね、結局その復帰は翌年の夏の大会にも間に合わなかった。
いったい、どれほど悔しかったことだろう? 入院中でさえ、みんなの練習メニューを考え、試合ともなれば松葉杖をついてまで応援に駆けつけてきた。それでも、彼は試合には出ることはなかったんだった。
そんな悔しさを一切顔に出さず、みんなに檄を飛ばしていた姿が、あまりに痛々しくて、それに触れることもできずに見ているしかなかった。久美も、私も
……
「そういうこと。この番号はそんな負け犬の象徴さ。『伝説』なんてありはしないのさ」
──パリッ
そう言って、力任せにピンで壁に止められたユニフォームを引き剥がした。
(でも、それは違うわ!)
私はその時心の中で叫んでいた。そんな寂しそうな背中、松葉杖をついて試合を見つめていたときの、それと同じような背中を再び見ることになるなんてあんまりだ。
──バンッ!
「あたっ!」
なんだか急に腹が立ってきた。私はキャプテンがまだ持っていた土産のボールを奪い取ると、思いっきりその後頭部に投げつけた。
「てぇ、いきなり何を
……」
「いい加減にしなさいよ! 何よ、さっきから黙って聞いてれば!」
「お、おい
……」
「それなら、なぜ中川君はそのユニフォームを『伝説』にしたのか、考えてみなさいよ。あなたは頑張ってきたわ。たとえ試合に出れなくても、しっかりとチームをまとめ、鍛え上げ、自信を持たせて試合に送り出した」
驚いて腰の引けた彼に、私は詰め寄った。
「そりゃ悔しいのはわかるよ、やりきれなかったに違いない。だけど、それを見ていた人たちはどうなるの? あなたを信頼してついてきた。そして試合に臨んだ部員たちは?
あなたは知らなかったでしょ? 中川君は泣いて自分を試合に出して欲しいと監督に頼んでた。1年生はまだ試合に出してもらえないのをわかってて、夏のインターハイ
……全国大会ならあなたの復帰に間に合うからって、絶対勝って見せるからって
……。
もし出られていたとしても勝ち残れたとは限らないけど
……幻だったかも知れないけれど中川君には見えていたの。この番号を付けたあなたがグランドを駆ける姿が。
だから彼はこれを『伝説』にした。この20年、その『伝説』を信じて頑張ってきた後輩たちの気持ちをないがしろにするつもり? わ、私だって
……」
私はそこで息を整えた。興奮しているのはわかる、たぶんこんなに激昂したのは久美と仲たがいした時以来だ。結婚間近になっても、まだ久美が気持ちを残していたことがわかって、そして久美の方だって私に
……
──則子の方こそどうなのよ!
その言葉に、私は今まで応えられずにいた。本当にバカな話
……私はバカだ。だけど、彼はもっとずっと大バカ者だった。
私は彼の手からユニフォームを奪い取った。
──ガサガサ
……
もう片方の手でバッグの中を漁る。
「で、出て来なさいよ
……」
他の物まで、大切な書類さえパラパラ床に落ちるのも構いはしない。
「お、おい何を
……」
「黙ってて!!」
ようやくのこと、青色だったけれど細いマジックを探り当てた。それを使って、2542と書かれた数字の上に、それはこの20年、決して忘れたことのない数。
涙がにじんできた。
「数なんか
……数えてなかったでしょ?」
それは、卒業式の後、いつの間にかいなくなった彼が、学生服のまま、一人部室の前で打ち立てたリフティングの回数だった。汗まみれになって、そうして倒れるまで
……。
私は乱れた数字でではあったが、新たに書き足された記録の記されたユニフォームを彼に突きつけて言った。
「ずっと見てた、数えてた。一年生の時からずっと
……。そんな私の気持ちまで無かったことにするつもり!?」
5
「本当にするのか? いや、今更言わないが
……」
部室で突然まくしたてた私に気押されたのか、誰も何も言えなくなった。その勢いのままに、私は現役のキャプテンにいきなりだったけど、紅白戦の開催を頼んだのだ。
その時の、笑顔になって了承の返事をした彼の顔は、その昔、憧れの先輩を崇拝していた中川君の顔を連想させた。
それでもまだぐずぐずしようとするのを、私は睨みつけて黙らせる。涙で乱れた化粧は、きっと怖そうに見えたに違いない。
それに後から気がついて自己嫌悪に陥りそうになった。ああ、やだやだ。
「一度地に落ちた伝説なら、いっそ泥だらけにしちゃいなさいよ。そしたら
……」
私は顔をほころばせた。怖く見えたって構いはしない。
「それぐらい私が洗ってあげるわよ」
──きゃーっ
後ろの方で、なにやら小声で騒いでいる現役のマネージャーの子たちが伺えた。黙って見てなさい。あんたたちは、私みたいになっちゃダメだぞ、と心の中でエールを送る。
「洗ったらあの記録、消えちゃうぞ? 水性だろ、あれ?」
「うげっ?」
「あっははははははっ!!」
今日一番の高笑いだ。顔に笑いを凍りつかせ、肩の力が抜けた私に、
「この後は、時間はあるか?」
「少しならないこともないわよ。どれぐらい?」
彼は、少し考えていたようだが、いつもの軽い調子で答えた。
「そうだな、20年ぐらい、空けといてくれ」
「にっ
……なんですって?」
グランドの方に向かって振り返りながら、次の彼のセリフは私の耳に飛び込んできた。
「随分遠回りしたからな、取り戻すにゃそれぐらいかかりそうなんだ」
- 了 -