1
「ここに座ってもいい?」
お気に入りの場所だった。学校帰りにいつも立ち寄る河川敷の上からは、夕日に映える街並が一望できた。
「
……」
まだランドセルの方が大きく見える。7、8歳の少年を視野に入れると、男は別に何もなかったかのようにまた正面に向き直った。
古ぼけたスケッチブックを片手に支え、ごくゆっくりとではあるが男の右手が紙面を滑る。どうやら絵描きのようだ。
少年は泣いていたのか、袖で強く顔を拭うと男の隣に、そう、心持ち距離をとって腰を下ろした。
先客がいたことになかば憤慨しながらも、それを咎める気持ちにはなれなかった。
不思議な静けさが辺りを染めていた。時折聞こえる列車の警笛も、忙しなく家路を急ぐサラリーマンの足音も、いつもよりずっと遠くに聞こえた。
「けんか
……負けたんだ
……」
はっとして少年は顔を上げ、男の方を見やる。こぼれるように口にしてしまったそれを、見ず知らずの他人に聞かれてしまったのではないだろうか?
ふう、とため息をもらし、彼は胸をなでおろした。男の様子に変化はない。泣き言を聞かれて潔しとするには、まだまだ幼く、そして誇り高いのがこの年頃の男の子の常だった。
やがて、
夕日がビルの向こうへと気恥ずかしそうに姿を隠し、淡い桃色から紫色へと空がその様相を変えるころになって、少年はすくっと立ち上がった。母親が彼の帰りを心配し始めるぎりぎりの時間を見計らって
……いつものことだ。
シャーッ
……
鋭く、紙を裂く音がして、少年は振り返った。
顔は正面を向いたまま、男の長く、たくましい腕はまっすぐに彼の方に差し出されていた。その先には一片のクロッキー用紙が握られている。
持って行け、とでもいうのであろうか、少年はためらいながらもそれを受け取った。
油性色鉛筆を使った稚拙な絵だった。輪郭がやたら太いく、力強いと言えなくもなかったが、それは赤く目をはらしながらもキッと口を結んで正面を見据えるいかにもきかん坊といった
……それは少年の顔を描いたものだった。
「え? あ、ありがとう
……」
予期せぬこの贈り物に、少年はそれ以上の言葉を知らなかった。なかば狼狽し、薄気味悪く感じながらも絵をしっかりと握ったまま、彼は家路に戻っていった。
2
次の日、いつものように河川敷に立ち寄った少年の前に、
やはり男はいた。
「
……」
シュッシュッと小気味よく紙と色鉛筆の擦れる音が続いている。男は無言であった。
「座るよ」
なかば意地のように、少年はその隣に座った。
(何を描いているの?)
(おじさんは何処から来たの?)
(昨日はありがとう)
いくつもの言葉が少年の喉元をよぎり、しかし発されることはなかった。少年もまた、無言であった。
それからというもの、少年がこの場所に立ち寄るたびに男は現れた。いや、彼が到着したときにはすでに男はその場にあり、少年が現れたといった方が正しいのかも知れない。
「今日はね、学校で誉められたんだよ」
「社会の先生がね、嫌みなやつなんだ」
「見て見て、リレーで一着になったんだ」
いつしか、少年はこの男に話しかけるようになっていた。学校であった出来事、好きなこと嫌いなこと
……友達や母親にもしゃべらないようなことまで、彼は語った。
男の返事はなかった。
少年もまたそれを期待していたわけではなかった。ただ、いつもこの場所でひとりでいる時に心に浮かべては消えていたものを、彼は言葉にするようになっていた。
少年にとって男は、いつも眺める街並や穏やかな川の流れ、夕日のうつろいと何も変わるものではなかったのだ。
3
月日が流れた。
しかし、男は常にそこに在った。少年の人生のほとんどを共有する数少ない存在として。
「おじさん、僕にも絵が描けるかな?」
少年はいつしか人生の選択を控えるまでの歳になっていた。高校での進路指導では、早く進路を決定するようにと急かされた。
いつものことだ。答えを何ひとつ期待するわけでもない少年の言葉は、独り言と変わることはなかった。
しかし、少年がうつむいたその顔を上げた時、目の前には手があった。
ごつごつした不器用そうな指、力強く盛り上がった腕
……少年はこの時、初めて男の顔を見た。
顔の下半分を濃い髭で覆われた、厳しく、だが気高い「おとこ」の顔がそこに在った。
男の手を握った。油性色鉛筆の匂いの染み込んだ、絵描きの手だった。
ゾクリ
……
背筋を走るものがあった。何かを描きたくてたまらない情熱のほとばしり、男の想いが込められていた。
「あ、あ
……」
4
半年後、
「やったよ、おじさん」
誇らしく美大の合格通知を掲げたとき、男の目はしかし、確かに笑みを見せたように少年には思えた。
「
……」
男は相変わらず無言であった。
しかし、少年に対する祝福の現れなのであろう。少年はその日、真新しいスケッチブックを男から受け取った。
5
スケッチブックに描き込まれることはなかった。
少年はそれを肌身離さず持っていた。新しい級友に揶揄された時にも、心打たれる素材を目にしたときにも。どうしても彼は、男からもらったスケッチブックだけは、開く気にはなれなかった。
「おじさん?」
いつものように河川敷をおとずれたとき、少年は悩んでいた。
何を描けばいいのか?
少年の右手には力強く握り締めた男の手の感触が今なお残っていた。感動を描き出す情熱を宿した右手だった。
しかし今、少年の手はただ空しく虚空を握り締めていた。
男はいなかった。
初めて男と出会ったときから、こんなことはかつてなかった。常に男は少年を待ち、そして見送ってくれた。
「まあ
……いいか」
止めどない不安を必死で押し殺して、少年は男のいない河川敷に在った。
いつもは男の座っている場所に腰を下ろし、男の描いていた街並を見下ろした。
もうあれから10年になる。少年は改めてこの街並がすっかり様変りしていることに心を寄せた。
ツー
……
不意に、頬を流れるものに、少年は自ら気づかぬふりをした。
もう、会えないのではないか?
これから自分はどうしたらいいんだろう?
少年は自らを偽ることを放棄した。あれ以来、彼は自分の弱みを見せたことはない。ただひとり、男を除いては。
6
「ここに座ってもいい?」
少年の驚きはかつてないものだった。
男のいるべきはずの場所でたたずむ彼は、背後から投げかけられたその問いかけに、すぐには反応できなかった。
ゆっくりと視線を声のした方に向ける。
ひとりの少女がそこに在った。
年甲斐もなく涙を見せる少年に、初め少女はきょとんとした表情を見せた。そしてやや気まずそうに身じろぎし、手にしたスケッチブックを後ろ手に持ち変える。
そして微笑んだ。
「あ、ああ
……」
ようやく、少年は言葉を発した。
再び、少年が男に会うことはなかった。
そして彼のスケッチブックには、最初の一枚が描き込まれた。
了
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