釣れますか?
彩乏し、霧不断の香を焚く・・・
どこかに侘しく、水の流れる音が続いている・・・
「やあっ、おっちゃん、来てやったぜ!」
「またぁ、あんたかい・・・」
文字で表せる範囲よりは僅かに大きく、最初の挨拶の「まっかっか」な明るさに対して、その返答は「どんより」とくすんだものだった。
実際、アウトドアな雰囲気を不必要なまでに撒き散らした男の出で立ちは、まさしく釣り人のそれであり、彩度が完璧に欠如したはずの霧の背景をゆがませるほどの強烈なフォーカスを演じていた。
対して、翁のそれは、時代という枠組みすら無意味に思える、汚れた薄い衣を巻きつけただけのような、みすぼらしいものであった。短い袖口、裾の先からは生気の乏しい細く剥き出しの四肢が突き出ていた。あちこち傷んだ小船の先に腰を下ろし、胡散臭そうに男の登場を流し見た。
「そんな言い方はないだろ? なぁ、おっちゃん。こうやって俺がたまにでも遊びに来てやらなきゃ、誰がこんな薄汚れた川の渡し舟を使ってやろうなんて思うもんか。ありがたく思いな。わっはっははは!」
とてつもなくでっかいその高笑いを横目に、
「ちっ」
小さく舌を打つのは、この年齢すら推し量るのが困難に思える老翁の癖でもあったようだ。深く皺に刻まれたまぶたの奥からは、果たして男の顔を見据えるだけの視力を残しているものなのか、にわかには判断しにくい濁った眼が覘いていた。
(おもしろくもねぇ)
そう言っているがごとく、しかし翁は、男の笑いを無視した。
男は、
「まぁ、そんなことはいいやね。さ、乗っけてくんな」
言うが早いか、すでに片足を翁の唯一の財産ともいえる小船に乗せていた。
「お、おい・・・」
血気盛んに翁の梶を奪い取り、見よう見まねで川底に突き立てた。
「おわっ、えい! おっちゃん! 進まねえよ。どうなっちまってんだ?」
男が、力任せに何度も試みるも、一向に船は進もうとはしなかった。まるで川底に根でも生えているとでもいうように、堅い感触を男の両足に返していた。
「ちっ」
翁は立ち上がると、足元なお心許なげながら、梶を手に戻し、ゆっくりと水面に差し込んだ。
するとどうだろう、男があれほど突き立てたにも関わらず、びくともしなかった小船が、まるで木の葉のごとく水面を滑り出したではないか。
「大したもんだ。やっぱりプロは違うねえ。亀の甲より年の功とはよく言ったもんだ。
おっちゃんよぉ、まあひとつ、頼んだぜ」
小船は滑る。こう濃い霧の中では、人の方向感覚などもはや当てにはできなかった。すぐに辺り一面が、霧に浮ぶ影のゆらぎでしかなくなった。
ピチャピチャ・・・
「おっとっと! この辺でいいぜ、おっちゃん。止めてくんな」
有無を言わせず翁を静止した男は、ウキウキとした風情を全身から発散させながら手にした竿に仕掛けを始めた。
「ちっ」
くすんだ眼からは、不機嫌そうな視線が覘いていたものの、その視線の先の人物には届いてはいないようだ。川底につい立てた梶を杖代わりに、小船の舳先に翁は腰を下ろした。
「高かったんだぜ、この竿はよぉ。なぁおっちゃん、聞いてくれや。釣具屋の主人が頑固者でよぉ、なかなか負けてくれねぇんだ。俺ぁ腹が立って腹が立って・・・。しかしまあ、こうやって手に入れたんだ。今日は気合が違うってなもんだ、気合が、わっはっは!」
気に入った竿の振りを確かめ、満足そうな笑顔をマシンガンのように、物憂げな視線の翁に発射した。
「待っててくんな、ここはひとつ、大物を釣り上げて、その場で捌いておっちゃんに振舞ってやるからよ。楽しみにしてるんだぜ」
へっへへ・・・
軽く舌で口元をなめると、シュンと小気味よく霧を割く音とともに竿先を走らせた。少し送れて仕掛けが水面に吸い込まれていく。
「ところでおっちゃんよ、この川じゃ、いったい何が釣れるんだい?」
「・・・・」
「あったく・・、答えてくれたっていいじゃねえか。獲物が何か分らないと、仕掛けもやりづらいったらありゃしねえ。まあいいけどよ」
何もかも、静かに流れている。川の流れだけでなく、時の矢先もいかにも窮屈そうだ。
「まあ何だな、おっちゃん。俺もたまにこうやって遊びにくるけどよ。おっちゃんには家族はいねえのかい?」
黙っていることが、罪悪とでもいうのだろうか、よくしゃべる男だった。
「・・・・」
翁の返事は無いに等しかったが、その辺のところは一向に意に介しない男は一人しゃべり続けている。
「俺にも息子が一人居るんだけどよ。まだ十になったばかりなんだが、なあおっちゃん、やっぱり父と息子の触れ合いって大切だとは思わねえかい? そうだろ、そうだろ。俺もやっぱりそう思ったんだよ、これが。
それで、たまには一緒に遊んでやろうって思ってよ、ほら、俺も仕事が忙しいもんだから、せめて週末ぐらいには、と誘ってやったんだ」
「・・・・」
「ところがよ、うちのカカアが・・、『カカア』って言ってもよ、俺が言うのもなんだが、結構いける口なんだぜ、会社の受付嬢をやってたぐらいだからよ。まあ、どうやって俺が口説き落としたかってのは、また話してやるから安心しな。
それでだ、そのカカアが反対しやがんだぜ、『塾があるから駄目』だってな。なあ、おっちゃん、嘆かわしいとは思わねえかい? 世の中の父親は、息子との心の交流も許されねえようになっちまったんだ。これからどうなっていっちまうだろうねえ、わっはっは」
なぜそこで高笑いができるのか、母親が反対するのも頷けるというものだった。
「・・・・」
「おっ」
男の目が楽しいものを見つけたようにパチパチとまばたき、竿を握る指先に力を込めた。
「おいおいおい、来たよ来たよ!」
嬉々として腰を入れる男とは裏腹に、翁は幾分目を見開いたかのように見えた。僅かながら驚きの表情と受け取れないこともない。
静かな水面がにわかに沸き立ち、ボコボコと不自然な音を立てた。
「へっへへ・・、こいつぁ大物だ! ええい、一気にいくぜ!」
「それっ!」
男が力ずくで引き上げると、見事に、
「やあ、吊れましたね」
白い布に身を包んだ首吊り死体が男の正面で、はからずも片手を上げて挨拶をした。
「・・・・」
「・・・・」
男は、無言のままハサミを手にとると、その首吊りの少し上から糸を断ち切った。
「わぁあうおう~~~!」
・・・ボチャン
「なあ、おっちゃん。やっぱりキャッチ&リリースってのも、釣りのマナーだよなぁ」
「・・・・」
「ええい、今日は元が悪いや。帰るわ! おっちゃん、またな!」
・・・霧散
掻き消えるように、男の姿はもはやなかった。
「ちっ」
物憂げに虚空に目をやり、翁はしかし、舳先から水面を覘きこんだ。
「おぅ、乗ってくかぁ?」
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男の名は青田孝明。普段は何処にでもいる普通のサラリーマンだが、週末ともなると、特技で生死を彷徨い、三途の川でバカンスを決め込む非常識な変人である。
- おわり -