雪猫
「ねぇ、ますたぁ……」
「何です?」
舌足らずな声で呼びかける方向に、首を傾げながら応じてみた。
「シャンメリーじゃ酔えないよぉ」
--チン、
おどけてシャンパングラスを指で弾く仕草……いかにも不満げな顔を作って、そして苦笑すようでもあった。
賑やかだったクリスマスのイベントは、客が不平を漏らすほど早い時間でお開きにした。それがオーナー権限さ、と笑って客と従業員を追い出したわけだ。
「イブの夜ぐらい、自分たちで過ごし方を考えたらどうだ?」と……
片付け始めたそのときに入ってきたその客の、ドアベルのけたたましさがようやく耳の記憶から離れかけていた。
仕方ない、常連さんだ。
既に顔なじみともなった女の表情を覗き見る。
頬の辺りがほんのりと赤く染まっているが、決してアルコールのためではない。それほど弱くはないことは承知してはいるが、今宵の飲み物はシャンメリーどまり、と断言した。
これもオーナー権限というものだ。
「つまんないねぇ」
定まらない視線でグラスに話しかけている。
(そっか、振られたか……また)
「また」と但し書きができるほど……もう何年にもなるか、折に触れて店を訪れた女の仕草や飲みようを目の当たりにしてきたが、随分と今日は穏やかだな、とも思いもう一度首を傾げて覗き見た。
酒に溺れるタイプではない。おそらく体質がそうなのだろうが、かなりの量をあおっても乱れるということはなかった。
ただ、それで喜怒哀楽が伺えないというわけではなく、努めてに見える陽気な仕草、途切れがちな会話、やや脇に追いやった視線の具合などが十二分に心の在り処を匂わせる。
ただ、そんな湿っぽい話も、逆に浮いた話も実はほとんどしたことはない。
「あたいね、ネコ飼ってんだよ」
「ほお……」
無口なグラスの代わりに驚いてみせた。いや、意外だと感じたのは本当なのだが。
「ひと月ぐらい前かな……ひどい雨の晩」
誰に聞かせる風でもない、それこそ独り言のように女の語る物語は、淡々としていて抑揚もなく僅かに動く瞳の揺れが、きっとそうなのだろうと勝手に想像して耳をそばだてた。
「あたいの彼……」と、女からそんな単語を聞いたのは初めてかも知れない。妙に感じ入って苦笑してしまう。
「自分の車ではねたのにさ、おどおどして……」
省略の多い話しぶりで、間を埋めるにはかなりの想像力を必要とした。
「で、連れて帰ったわけですね」
「だって、溝の中で鳴いてたんだよ、そいつ。きっとお母さんだったんだ、あのネコ」
はじめて強い声で、そして私の方を向いた。
「最初はさ、何て汚いネコだろうって思った。一緒に濡れて帰ったんだ……」
両腕を引っ掻き傷だらけにされながら、自分にすがりつくようにしてシャワーを浴びた子猫の話をするときの表情は、それまで見たことがないほど幼く、物思いに耽る少女のそれに近かった。
これまでも、店を訪れた多くの客がそうであったように、長年こういった店をやっていると、嫌でも相手の素性が読めてしまうようになる。それに相対することを止めてしまったのは、もう随分と前からだ。
寂しい女……おそらく、それまでの自分ならそれ以外の評価はできなかっただろう。気丈さが覆い隠したそれを気取られることに怯え、けっして交わろうとは……させない心と想い。例外なく、酒の助けで垣間見せる。憐れにも……いや、そうは思わないためのカウンター上の透明な壁。
しかしこの時、とめどなく話を続ける女の表情に、いつしか目が離せなくなっていた。驚いたことに……、
子猫は、綿帽子のように小さくて真っ白だという。
部屋を掃除しているときに、掃除機で吸い取ってしまうんじゃないかと本気で心配した話には、たまらず二人して大笑いした。
「変だよね、同じマンションの人に気付かれないように気を配りながら連れ出すんだよ、外に……。まだちっこいからさ、とっても寒いからさ……胸のとこに入れて、こうやって」
きっとこの時だろう。私がその女を、それまでとは確かに違う感情を込めて見るようになったのは。
初雪を、「あんたみたいだね」と胸に抱いた子猫に話かけた女は、おそらく初めて空から降るのが涙ばかりではないことに気が付き、そして空を見上げたのだろうか。
人恋しさと切なさと、そして諦めとの間で繰り返してきたこれまでの人生とは違った「これから」を感じて……
* * * *
「沙織さん……」
「はい?」
拍子抜けした声で、それもそうだろう。知ってはいても決して客を名前では呼ばないマスターだったから。
「今日はもう閉店ですよ」
「ええっ、そんなぁ! まだ早いよぉ……」
「いやいや、遅すぎるぐらいですよ」
肩をすくめてそう応える私に、頬を膨らませて納得のいかない顔をする。いやいやしながらも、なかば無理やり店から追い立てられて、
「そうそう、これは白い子猫にサンタからのプレゼントです」
程よく暖めたミルクの入った魔法瓶を押し付けられた女は目を白黒させた。
「ありがと……でも、似合わないね」
「そうかい? これでも?」
サングラスに髭面のマスターには、いささか度の過ぎた演出なのだろうか、構いはしない。
入り口近くに飾ってあったサンタクロースの人形から拝借して……禿げ上がった頭に心の中で謝りながら、おどけて自分の頭にのせた帽子を、その次に女の頭にかぶせた。
「イブには……誰だってサンタクロースになれるのさ」
このときの目を大きく見開いて、そして私に投げかけられた笑顔を、忘れることなんかできそうもない、な。
「あいつの名前、まだ決めてなかったんだ」
最後に目を伏せて、そう呟いた……
夕方から降りだした雪は、それとは気付かないほど暖かかった。
- おわり -