Tears in Heaven
ポン、ポロン…
地下鉄の改札を抜けると
かすかに聞こえた
そのメロディーは
ストリングをはじいて
ギターが奏でるそれ
アーケードの上で躍る
雨音にも似て
いつも勘違いしては
洋服が濡れるのは嫌だ、と
母のスカートにしがみ付き
むずがっては困らせた
*
頬に残る雫の記憶は、たぶん涙。
*
幼かったころ、
申し訳なさそうに何度も頭を下げて謝る母に、「いいんですよ」と軽く笑みを返し、いつまでも、私のそんな幼稚なおしゃべりに付き合ってくれた。
『雨は嫌いかい?』
『だいっ嫌い! でも、おにいちゃんのギターの音は好きだよ』
『あははっ、そうかい?』
その、はにかむような笑顔に、とても安心を覚えたものだ。
いつしか、駅の改札を出るとそんなメロディーを期待しては耳を澄ますようになった私がいた。
高校を卒業と同時に就職し、逃げるように1人暮らしをはじめた今になってさえ。雑踏の中に紛れてはいまいか、と。
頬に残る記憶がそうさせたのだろう。
*
雨を思わせる、その曲のタイトルを知ったのは、ずっと後になってからだ。
『天国ではみんな幸せだから、涙を流すこともないんだよ』
『ふーん……』
『だから人は死んで天国に上る時に、涙を残していくんだ』
『わかった! それが雨になるんだね』
『そう、雨が降るのは、
天国にいる人が幸せだという証拠なんだ』
じゃあ、あなたが残した涙もこの雨の中に?
ううん、そんなはずはない。それならきっと分かるはずだもの、私にだけは。愚にも掛けない、そんな想いが私を縛った。
いいえ、きっと自分でそうしてしまった。
半年、一緒に暮らした彼と別れることになったとき、ひどい罵り合いの後で、息を切らしながら呟くように教えてくれた。
別に彼に尋ねたりしたことはない、私自身もあえて探したりはせずにきた。
私が変われるために、そう言って。最後の優しさだから、と
幼い私の昔話を、穏やかに聞いてくれた……そんな相手だった。
自分が、助かる見込みのない病に侵されていることを、決して打ち明けることなく、偽りを仕組んだ……馬鹿なひと。
*
流すべき涙を音に変えて歌ったあの人は、きっと弱虫ね。嘘をつくのが下手な……、だからあんなに優しかった。
今なら、それが分かる。そんな気持ちも、悔しさも。
『ひとりで来たのかい?』
『うん……』
『困った子だなぁ……』
小さい子供のわがままに応じてくれて、私のために奏でてくれた。不思議に涙が流れるその理由(わけ)と、雨を誘う魔法の弦のおとぎ話で目を白黒させる私を、可笑しそうに……いとおしそうに。
私がひとりだったのは、
事故で死んだ母の葬儀が終わり、時を待たず遠くへ越していくことになるのを、幼い私は不思議な感覚で察したのだろう。抑えられない衝動が、私を駅前まで走らせた。
曲が終わるころから、ポツ、ポツリと降り出したそれは、無理やり握らされた雨傘にはじかれて、今なお耳に残る子守唄のように。
そのときは、何かを信じられた。そんな気がしてる。
以来、駅頭に響く雨を奏でる調を耳にすることはなかった。
決して奏でることのない一本の弦が、私の心の奥底にあるのだろう。
彼の死を聞かされた時にも、耐えようのないやり切れなさを覚えながら、ついぞ涙は流れなかった。
(もしも、私が死んだときは、きっと大雨ね……)
飲み込んだ涙で湿った弦がいっぱいに引き絞られて、堰を切ったように弾ける様子を想像してみると、笑えてしまう自分が情けなかった。
*
(ポロン…)
いつもより、少し早めに会社を後にして。
混雑した地下鉄を降りた時に感じた匂いは明らかだった。曖昧な降水確率のはざ間に潜む気まぐれに閉口して傘を取り出そうとしたとき、
その、かすかな音色はしかし、間違えようはない。
(馬鹿なひと……今頃になって)
ストリングが弾けてる……
夕焼けを背に滴り落ちる雨音は、風とともにテラスをなでるように。思わず見とれてしまうほど美しい光景だった、そして優しい。
そして、
降り注ぐ雨に構いもせず、その中で佇むひとりの男の後姿に、ある種の予感を覚えて私は声をかけた。
「あの……」
背後から投げかけたそれに、最初は気付かなかった。
肩にかかった雨露を払おうとして、振り返ってようやく、
「あ、……」
「どうぞ、」
寄り添うように差し出した傘に、困ったように浮かべる照れ笑いには、確かに見覚えがあった。
- おわり -